五仁會 相談役 中野重次

 五仁會発会式メンバー紹介にて、司会者・西口紗矢がアナウンスした言葉を引用しよう・・・

 

 竹垣代表の良き理解者であり、仕事のパートナーでもあります。

 これからは、世の為・人の為に頑張って行きたいとおっしゃる野菜作りの名人、中野重次さんです。

 

 ・・・私と中野重次が知り合ったのは、昭和54~55年頃で、深く付き合い出してから約28年の歳月が流れた。

 思い起こせば私が昭和61年に懲役5年を務め、神戸刑務所から出所して数日経って、私の家へ訪ねて来たのが親しくなるきっかけだった。

                       

 中野重次は、私の片腕として活躍してくれた西村学と幼な友達で、私が懲役に行っている間に当代が変わったので、私と竹中武との「盃」を、西村学より預かり持って来てくれたのだ。

 当時、西村学は服役中だった・・・

 

 盃と云うのは、むかしから変わらない結縁の証しである。

 

 人情紙風船と云われて久しいが、盃の重さというのは、飲む者の心意気次第で変わるものだ。

 

 国定忠治の名月赤城山の歌詞ではないが「男ごころに男が惚れて・・・」となるのが侠道精神の基本である。

 

 それが三代目 田岡一雄が死に、四代目 竹中正久が暗殺されてから、いつの頃からだったか山口組と云う代紋の下で半ば強制的に盃事が執り行なわれて来た。

 

 関東のヤクザと違い、縄張りを持たない関西のヤクザは、仁義と云うものが成り立たない。

 そこで自然に力関係が生まれる。

 

 力が無い分、金の重みが物事を左右する。

 云わばヤクザの筋道より、金の重みに負ける世界が構築されたのである。

 

 さて中野重次のことだが、この人は当時からお人好しで男気があり、どんな相談事でも気持良く引き受けてくれる人だった。

 

 その中野重次に云わせれば、竹中組のトッパ者だと聞いていた私が、礼儀正しく謙虚で、相手の目線で話すのを聞いて、私と会った瞬間「僕(中野)は、親分(私のことである)のファンになった」と今でもその時を振り返って云うのである。

 

 それ以来、ずっと私の相談役的な立場で私を支えてくれた。

 

 今でもその関係は変わらないのだ。

 

 中野重次は今、四ヶ所の畑で野菜や果物作りを趣味として、ボランティア活動に精を出している。                   平成26年卯月21日  竹垣 悟

五仁會 伝統工芸指導・長尾龍

 五仁會発会式当日、メンバー紹介で司会の西口紗矢・グレイスプランニング代表の言葉を引用してみたいと思う。

 

 「姫路城の鯱(しゃちほこ)が完成しました。

  実は今から紹介する先生が作ったものが、天守閣に上がります。

  鬼師の長尾龍さんです。

  拍手を持って、お出迎え下さい・・・」

 

 こうして席上で立ち上がり、長尾龍の顔にスポットライトが当たった。

 

 ・・・私と長尾龍とは不思議な縁で、私が塩町にあった自宅兼事務所マンションから撤退して、現在住んで居る坂元町の家を買った時、友人の古道具屋で見た鬼の焼物が忘れられず、それを買った時に縁が出来た。

 

 不動明王の剣に、鬼が登っている姿を焼物にしているのだが、この作品が何とも云えない迫力なのだ。

 

 私は「不動明王の剣と鬼」の作品が気になって、古道具屋・北宿へ4~5回通った。

 

 その度に、店主の鈴木末孝は「この鬼を見とったら怖いので、目の届かない所に置いた」と云う。

 

 私は店主に「値段は、なんぼや」と聞いた。

 すると店主は「会長(私のことである)には値段を付けづらい」と云う。

 

 それでもなお聞くと「10万円以上で売ってくれと作者から云われている」と云うのだ。

 私はそれで黙って帰った。

 

 そして次に行った時、矢張りその作品の事を聞いた。

 そしてまた同じように店主は「10万円以上で売ってくれと作者から云われている」と云った。

 

 3回目に行った時、店主は「会長、そんなに気にいっとんやったら作者に値段の交渉をしてみるわ」と云う・・・

 

 今、その不動明王に鬼が登っている焼物は、私の家の玄関下駄箱の上に飾っている。

 

 ・・・この家を私が買った時、リフォームした。

 ついでに鬼瓦を付ける事にした。

 

 私は骨董品が好きで、鬼瓦も少し凝ったものにした。

 その鬼瓦を手直ししてくれたのが、長尾龍だった。

 

 そしてその後、一緒に食事をして意気投合した。

 それ以降、長尾龍作品のコレクターとして今に至るのである。

 

 だから私の家の表札も家紋も瓦で焼いてもらい、金箔を張りつけたものを玄関に揚げている。

 これは長尾龍の私に対する引越し祝いだった。

 

 私と長尾龍とは、姫路城のシャチホコを作る以前からの付き合いである。

 

 何を作らせても器用で、備前焼の型師もしている。

 その作品も私のところにある。

 

 この長尾龍は職人かたぎで変人だが、私の云うことは大概聞いてくれる。

 今や私とは親戚といっても良いぐらいの男同士の付き合いである。

 

 もちろん世の為・人の為に鬼瓦を丹誠込めて作っている。

 

 この長尾龍の作品は、一寸したお寺の鬼として魔除けをしているのだ。

 写真は、長尾龍が姫路城の鯱(しゃちほこ)を釜から取り出し、出来具合を見ている姿である。

                       平成26年如月18日  竹垣 悟

 

五仁會理事 岡田隆二

岡田隆二の「そば屋」の方向から見た竹田城
岡田隆二の「そば屋」の方向から見た竹田城

 和田真こと岡田隆二も、元は私が率いた義竜会で事務局長をして居た男なのだが、私が堅気になった時、私に付いて堅気になり現在に至って居る。

 

 自慢話は聞いて居て気分は良くないが、敢えてここで私の暴力団組長としての自慢の種をひとつ紹介しようか・・・

 

 私が堅気になった時、五役と呼ばれる「副会長」「若頭」「舎弟頭」「本部長」「事務局長」それに相談役を含めて舎弟全てがどこの組にも行かず、誰の盃も受けずに堅気になった事である。

 

 もちろん数多く居た若い者も、ほとんどが私と同じ様に堅気になったのは云うまでもない。

 ほんのひと握りの、代紋を傘に着たい奴も居たが、それもほとんど堅気にさせた。

 義竜会は暴力団としても、更生第一号なのだ。

 

 岡田隆二の話しに戻す。

 五仁會発会式での司会者・西口紗矢のメンバー紹介欄にある言葉を、ここで引用してみたいと思う。

 

 「竹垣代表と長い間苦楽を共にして来ました。今、その苦労が小さな蕾(つぼみ)となってここに紹介できそうです。ディック・ミネの『旅姿三人男』に例えるなら『大政』はこの人。岡田隆二さんです」

 

 岡田隆二はそれぐらい貫禄があり、しっくりした風格が備わった男である。

 私の恩人である飾磨の中谷病院・名誉院長 中谷健二に云わせれば「次郎長一家で云えば岡田隆二が大政やど」と云うのである。

 

 そして最後にはいつも、現役時代の私に「お前もええ若い衆を持ったのう」と云って居たのである。

 

 義竜会は所帯が大きかった所為か、年がら年中「トラブル」ばかり起こして居た様な気がする。

 そんなトッパ者の私に長い間、私ひとりだけを見て、よく付いて来てくれたと思う。

 

 この男は、全身「胸割り」と云う入れ墨を入れて居るが、私はこの岡田隆二の入れ墨姿と云うのは何回か一緒に風呂に行った時に見たぐらいで、普段当番で事務所に来て居て暑くても決して服は脱がず、肌は見せた事がない様な男なのだ。

 

 いま堅気になって、予(かね)てより念願の地元但馬で、天空の城として有名な竹田城が見える絶景の場所で「そば屋」の開店準備をして居る。

 そば打ちを修行し自分の味を作り上げ、やっと「そば屋」を開業出来る様になったのである。

 

 岡田隆二の努力には、流石の私も頭が下がるのだ。

 ヤクザだった頃から額に汗を流して土木建築業をして居たので、家族の為に汗を流すのは慣れた男である。

 

 数少ない信念を持った極道だったのが、この岡田隆二だったと云っても過言ではあるまい。

 この男も私や渡辺真文と一緒で、嫁の内助の功に支えられて来た女運に恵まれた男である。

 

 もちろん私の嫁とは姉妹の様に仲が良い。

 私は良い男達に囲まれ、幸せな男である。   平成25年五月29日  竹垣 悟

五仁會 武道指南役 嘉納治五郎創設の「講道館」      柔道6段 桑野勝彦

講道館柔道6段・桑野勝彦師範認証
講道館柔道6段・桑野勝彦師範認証

 桑野勝彦は、元大阪拘置所の主任看守で、私が在監中は5舎4階の独居拘禁者を収容する舎房の正担当をして居り、若手刑務官の中でも将来を嘱望されたエリート刑務官だったのである。

 

 当時・柔道5段で、刑務官を退官してからも柔道を続け、今春講道館柔道6段に昇段した猛者なのだ。

 

 桑野が刑務官を退官したのは2006年8月19日の事である。

 

 山口組直参・天野組々長・天野洋志穂(本名・金政基、1940・4・13生)「宅見勝若頭射殺事件では、中野会副会長・弘田憲二を配下の組員が2002年4月に沖縄で射殺して居る」が、大阪拘置所に収監されて居る時、本来の男気に駆られ「面倒を見過ぎた為に」大阪拘置所を懲戒免職になったのだ。

 

 この時桑野は「収賄容疑」で逮捕され、懲役3年・執行猶予5年の有罪判決を受けたのだが、その執行猶予期間中も青少年相手に柔道を教え、また自身も柔道一筋に打ち込み、無事執行猶予期間を終え、現在に至っているのだ。

 

 だから今は「青天白日」の身になったのである。

 

 ここで当時桑野勝彦の奥さんが、六代目山口組・篠田建市組長宛てに綴った手紙の一節を紹介してみたいと思う。

 

 この手紙は桑野勝彦の奥さんの「断って」の願いが込められて居り、私はこの奥さんの情熱に絆(ほだ)されて奔走した一人である。

 

 或るルートで篠田建市組長に届く筈だったのだが、途中色んな問題が起き、結局届かなかった「篠田建市宛のまぼろしの手紙」である。

 

 当時奥さんが綴ったままを掲載するので、現在とは若干異なる部分もあると思うが、そこは時代の流れを酌んで一読願えれば本望とするところである。

 

拝啓 篠田建市様

突然の手紙にて大変失礼致します。

私は、2006年まで、大阪拘置所に於いて 刑務官をしておりました 桑野勝彦の妻です。

篠田様は、私共の事は覚えておられないかも知れませんが、事件後の私達 家族の事を少しでも知って頂きたく、今回この様な形で ご連絡させて頂きました。

この事件に関して 主人は 天野洋志穂様 他 みなさんの為に少しでも協力をと思いした事だと 私に話してくれました。

ただ、金品等を受け取ってしまった事に関しては 何を弁解しようと「法律上、職務的に絶対してはいけない事をしてしまった」主人に すべて非がある事は、本人も深く反省しております。

 只、この事件後 社会的にも 抹殺され 働く職場も無くし 子供達は 学校でいじめにあい 自宅には 嫌がらせの電話や、手紙、生卵や生ごみを ぶつけられたり、色々な事をされました。

最近になり ようやく普通の生活に戻りつつありますが、一番 主人を支えていくべき 私も疲れきってしまいました。

現在 主人は 小さな警備会社で 営業をしております。

今回、この様な手紙を書かせて頂いたのは 主人が 一度、篠田様と面識があり 少しですが お話をさせて頂いた際に この方には 何でもすべて 話をしようと思ったと聞いたからです。

こちら側の勝手な思いだとは、わかっていますが、まだまだ 家族は地獄の底から這い上がっていません。

篠田様 大変 お忙しいとは思いますが、一度 主人と連絡を取って頂き、今までの経緯を聞いて頂けませんでしょうか?

私が こんな事を するべきではないのですが このままだと 主人は地獄を這いずり回ったまま 一生を終えそうな気がします。

本当に 勝手な事ばかり 書きとめた事を お許し下さい。

これからの季節 どうぞ お身体に気をつけて 御自愛下さいませ。

どうか、主人の事 よろしくお願いいたします。         敬具

 

 桑野勝彦は刑務官特有の「人は信じる者だ」と云う観念が強く、平たく云えば純真無垢な男であり、刑務官の世界しか知らずに今に至って居るのである。

 

 因みに警察官は「人は疑え」が固定観念だと云う。

 獄(おり)の「中」と「外」で働く人間は、同じ公務員でも真逆な考えなのだ。

 

 これを聞いた時、私は成る程と思った反面、職業柄最もな事だと思ったのである。

 それだけに刑務官を免職になった現在(いま)も、男の意地と家族への汚名を晴らしたい一念から「犯罪者更生支援」に携わりたいとの思いが強いのである。

 

 そこで、私が五仁會を立ち上げる時「声を掛け」同志として一緒に「世の為・人の為にと」立ち上がったのである。

 

 桑野勝彦は、今春から同じ五仁會の村田浩(ひろし)政治局渉外部長の発案により、東日本大震災の被災地・福島県楢葉地区へボランティア活動を兼ねて、現地の復興工事に7ヶ月間従事する事になった。

 

 これは純粋なボランティア活動ではないが、将来五仁會が震災復興に手を貸せる時が来た時の為に、桑野勝彦が先乗り隊のような感じで現地の様子を把握する為に行くのである。

 

 桑野勝彦の被災地での活躍を、心より祈りつつ擱筆する次第である。

                        平成25年卯月9日  竹垣 悟

五仁會武道指南役・講道館柔道6段 桑野勝彦
五仁會武道指南役・講道館柔道6段 桑野勝彦

五仁會 政治局渉外部長・村田浩

日本赤軍によるダッカ空港ハイジャック事件のバングラデッシュ政府マムード空軍司令官
日本赤軍によるダッカ空港ハイジャック事件のバングラデッシュ政府マムード空軍司令官

 村田浩(ひろし)は元銀行マンで、現在は五仁會でボランティア活動をする同志なのだ。

 そして、日本個人情報管理協会の審査員の資格を持つ男である。

 

 私と村田とは家電リサイクル工場の下請けと、人材派遣を行なう仕事仲間であり、私の友人が上海で事業をして居るので、その友人の事業内容を確認する為に中国まで私の嫁と3人で、行った事もある仲なのだ。

 

 村田は母親想いの男だが、その母親も先日鬼籍に入った。

 私とは週に一度・土曜日に昼食(ランチ)をしたり、お茶を飲んで仕事の報告を兼ねて親交を深め合って居る仲でもあるのだ。

 

 その時に、お母さんの話も時折出て居たのだが、そのお母さんが死んで村田の母を想う心がもう聞けなくなった。

 母親と云うのは、人と生まれる為には必要不可欠な存在で「人間の宝物」と云うべきものだと私は思うのだ。

 

 だから親思いの人間は、男女を問わず私は好きなのだ。

 自分の親一人を大切にしない人間は「ロク」な人間ではなく、そんな人間は「孝」と云う字を忘れてこの世に生まれて来たのである。

 

 それも「因果」と云ってしまえばそれまでだが、私は親と云うのは「むかしばなしの桃太郎」に出て来る雉(きじ)の様に、たとえ自分の巣が焼けて炎に包まれても、自分の子供は死んでも守る、と云う決死の覚悟がなくてはならないと思うのだ。

 

 これは、日本文化が継承して来た大和民族の、親が子を想う「原点」なのである。

 私は親不孝を散々重ねて来たが「親を想う心」は、親が死んだ今でも永遠に私の心に生き続けて居るのだ。

 

 ここでふと、NHK・BS1で放映されたドキュメント「証言でつづる現代史・管制塔は3度揺れた!」と題したDVDが目に留まったので、この事件を思い起こしてみたいと思う。

 

 日本にも革命に命を賭けた青春があったからだ。

 

 1977年9月28日に起きた日本赤軍によるダッカ空港ハイジャック事件では、バングラデッシュ政府のマムード空軍司令官が、ハイジャック犯5人のリーダーである丸岡修(当時26歳)と「丁丁発止」の遣り取りをして、人質全員を無事解放させたのは、我々日本人として深く心に残る出来事なのだ。

 

 丸岡修は突如「我々は、日本赤軍だ。人民の団結は最大の武器であり抑圧された人々の自由の為に、日本赤軍は軍事作戦を実行する」「これが我々の声明だ」と、マイク片手に管制塔に居る「マムード空軍司令官」に叫んだ。

 

 マムード司令官も「私だって戦士だ。戦士は互いに裏切らないものだ」「・・・我々も戦ったんだ。何百万人もの血を流して、我々も貧しいけれど独立しているんだ。独立に生死を賭けた人々への敬愛を表してくれ」と、丸岡に迫ったのだ。

 

 このあと不幸にもバングラデッシュ政府で「反乱軍」のクーデターが起こった。

 「日本赤軍」相手に奮闘を続けるバングラデッシュ政府軍に対して「反乱軍」が決起したのだ。

 

 その結果、マムード司令官の義弟や部下も多数戦乱に斃れたのである。

 歴史のヒーローの裏側には、必ず悲劇も隠されているものだとつくづく思う。

 

 日本赤軍の要求は「服役中の9人の同志の釈放と、600万ドル」をダッカへ持って来る事だった。

 「もし応じなければ、人質全員を処刑する」と云うのだ。

 

 その時の総理大臣であった自民党・福田赳夫の「人命は、地球より重い」と云う決断で「奥平純三・大道寺あや子始め、政治犯6名の釈放と600万ドルの現金を渡して、人質全員を無事救出したのであった。

 

 この頃の日本人は、男も女も輝いていた。

 この輝きを、今の政治に反映して貰いたいと私は思うのだ。

 

 今日本を取り巻く世界情勢は、朝鮮半島の軍事行動による挑発を見るまでもなく、混沌とした様相を呈している。

 こんな乱世にこそ自民党保守派の旗手・安部晋三のような「突破力」のある政治家が必要なのである。

 

 ここはひとつ、安部晋三の手腕を活かして混迷する「極東情勢」を明るいものへと転化して欲しいと願うのは、ひとり私だけであろうか・・・

 

 安部晋三は、保守派としての日本男児そのままの思想を堅持する政治家だが、民主党が鳩山・菅・小沢のトロイカ政治により共産主義的政党色になったのは如何ともしがたい事実である。

 

 我が国の慣例を無視して「天皇陛下」に前代未聞の中国要人との会談をさせた小沢一郎は、日本文化の伝統を継承すると云う点では「国賊」である。

 

 私の様な共産主義が理解出来る人間が見ても、あれは日本国民としてやるべき事ではなかったのだ。

 

 皮肉にもそんな民主党が政権を取り、先程のトロイカチームが独裁者の如く、政権を動かして行ったのは隠しようのない事実である。

 矢張り、このトロイカチームも一党独裁政治を行なう中国に憧れたのであろう・・・

 

 政治の結末も歴史が証明して居る通り「国益」を考えずに、いくら国を動かしても国民の生活は向上しないのである。

 

 日本の国民は、天皇陛下を頂点に国が成り立って来た歴史を知って居るので、結局は保守的にならざる負えないのだ。

 島国である日本の国は他国を侵略する以外、天皇陛下を象徴とする政治を行なっていく事で国が栄えて来たのである。

 

 それが文化の継承であり、国の伝統に繋がっているのだ。

 

 税金が安いからと云って国外に生産拠点を移して居る企業が多いが、国と国が戦う事態が起こればどうなるのか・・・

 内需拡大を図ってこそ、国益に繋がるのである。

 

 そこの所を考えて今一度、日本国の将来に想いを馳せてみるのも国民の義務なのだ。

 隣の国の若き指導者が暴走した時、戦後の処理をいま考えておかなければ政治は前へ進まないのである。

 

 そこのところを考えて政治が前に進み、我々NPO法人が活躍出来る気運が更に高まる事を期待して筆を擱きたいと思う。          平成25年卯月4日  竹垣 悟

日本赤軍によるハイジャック事件後に起きたバングラデッシュ政府反乱軍のクーデターによる衝撃の場面である
日本赤軍によるハイジャック事件後に起きたバングラデッシュ政府反乱軍のクーデターによる衝撃の場面である

五仁會・ボランティア局長 松居幹夫

松居幹夫が愛車、ハーレーダビットソン1988年式サイドカーの運転席に乗り、こちらを向いている。横に写っているのが1990年式の幌付きジムニーだ。
松居幹夫が愛車、ハーレーダビットソン1988年式サイドカーの運転席に乗り、こちらを向いている。横に写っているのが1990年式の幌付きジムニーだ。

 松居幹夫はアマチュア無線の愛好家として、播州地方に災害が起きたら、この「無線」を使って社会貢献をしようとして居る男である。

 職業は、ウインクケーブルテレビの下請け業者だ。

 

 私とは、スズキ自動車のジムニーとオートバイの愛好家として同じ趣味を持つ者同士、仲が良いのだ。

 付き合い始めてまだ7年余りしかならないが、この松居と知り合って私は免許を取り、ジムニーを買って、ジムニーとオートバイマニアになった経緯がある。

 

 ジムニーもこだわりを持てば、姫路の豊富町に在るタニグチ自動車に行けばジムニーのオリジナル部品があるので、そこで最初の頃は色んな部品を買って取り付けたものである。

 

 私のジムニーは、平成7年の後期に出来たもので、このシリーズでは最後に出た一番人気の車種だと松居は云う。

 今、私のジムニーもパーツは、ほとんど「スズキ自動車」が当時発売したもので、純正部品を使ってマニアックな車に仕上げて乗って居る。

 

 エンジンは古いが丈夫で、遠乗りも出来、ガソリン燃費も良く、経済的な車である。

 このジムニーの手入れは、ジムニーに詳しい加古川の平荘町に在る岡田自動車に頼んで居る。

 だから私のジムニーは、丈夫で馬力が衰えないのである。

 

 私は車の免許を取ったのが堅気になってからなので「遅く」それまで自分で運転する事もなく、無免許運転はしなかったので、自慢ではないが車の運転は下手なのだ。

 家にはベンツ2台とエルグランド、それにマツダのムーヴ(五仁會の活動車)があるが、私はほとんど軽四のムーヴとジムニーに乗って居るぐらいである。

 

 松居のジムニーは平成2年式で「幌付き」のスカイブルーで、いかにも軽快な走りをする車だ。

 このジムニーに無線のアンテナを上げて、無線クラブの仲間と交信して居るのである。

 

 黒田官兵衛ゆかりの広峰神社の宮総代をして居るのが、この松居の無線クラブの会長である「カマタニ制服」の社長・鎌谷正弘なのだ。

 

 この鎌谷正弘も、私達五仁會の主旨に賛同して発会式に出席してくれたひとりだ。

 警察署を始め、官庁者の制服を扱う姫路では老舗の制服屋さんである。

 

 松居幹夫はボランティア活動が好きで、飾磨区都倉の住民なので、この都倉公園を始め色んな所で毎期「草刈機」を使い、除草作業をして居る。

 

 祭りも好きで飾磨地区・恵美酒神社の秋祭りでは、毎年声が嗄れるぐらいにハッスルして居る「お祭り野郎」でもあるのだ。

 祭典では「取締め」をして居ると云う。

 

 オートバイはハーレー1988年式のサイドカーに乗り、ハーレー仲間とツーリングを楽しんで居る趣味人でもあるのだ。

 

 私のオートバイはホンダのシャドーで、車体こそ大きいが私は中型バイク免許しかないのでエンジンは400ccである。

 年式は1950年代型の復刻モデルで、車体は大きいが「ハーレー」のように地響きを立てるようなエンジン音がしないので、それが少し不満だ。

 

 1990年に発売されたバイクだが、レッド・バロンで買った時「この年式で、これぐらい外観の良いバイクは少ないので少し値段は高いですが、その値段分の値打ちは有りますよ」と云われて買ったバイクである。

 

 ナンバーは姫路あ5000番で、このバイクのナンバーを新しく取ろうと思えば10年は掛かると云われたぐらいの私にとってはラッキーナンバーなのだ。

 私が何でもこだわる「凝り性」なのは、誰でも知って居ると思うが、バイクのナンバーまで5000番で、それも「あ」なので、これは本当に値打ちのあるナンバーである。

 

 松居も車やバイクに凝る方で、それで私とは尚更気が合うのだ。

 もちろん五仁會では無線関係・パソコン関係・エンジニア関係全般のエキスパートとしてNPO法人の正義を担う男気溢れる人物である。

 

 私はこの松居に、覚醒剤依存症の人間を収容するリハビリセンターの所長になってもらいたいと云う夢がある。

 この松居なら、そう云う人の面倒も親身になって見てくれる男だからである。

                        平成25年卯月2日  竹垣 悟

五仁會理事 名門庭師・佐野吉保

佐野吉保作庭 我が家の庭にある「祇龍寺」の阿修羅地蔵尊に佐野の冥福を祈って・・・合掌する。
佐野吉保作庭 我が家の庭にある「祇龍寺」の阿修羅地蔵尊に佐野の冥福を祈って・・・合掌する。

 佐野は、幕末新撰組の隊士で云えば井上源三郎、通称・仏の源さんとでも云えようか・・・

 

 同じ鳩の愛好家として私とは40年近くの付き合いがあり、この男は本当に鳩が好きで、鳩協・名親連合会内「ドラゴンクラブ」の会員でもあった。

 

 私が坂元町に引っ越して庭を造る時、この佐野吉保(きちほ)に作庭して貰ったのだ。

 佐野が京都で庭師として修行を積んだ「おさらい」として、私の「祇龍寺」の庭を造ってくれた。

 

 庭は私が好きな「蘇鉄」と「地蔵」と「もみじ」がメインで、中央に大きな石をくり貫いた蹲(つくばい)を置き、竹筒から水が「ポツン~ポツン~」と流れて落ちる様になって居る。

 玉垣には「祇龍寺の庭」と文字を彫り、横手に完成した日と「作庭者の佐野吉保」の名前を入れて居る。

 

 その佐野が3月22日に死んだ。

 その朝8時53分に、高校生の息子から私に電話があり「お父さんが倒れて、今循環器病院の集中治療室に居る」と云う。

 

 私は寝起きのまま直ぐ病院に向かった。

 そして佐野と対面した。

 

 奥さんに聞くと「佐野が倒れた時、もうすでに駄目だったんですよ」と云う。

 倒れる前に、私の誕生日が21日だと覚えていてくれ「私の事を一生懸命話して居た」と云うので、私にだけ電話をくれたそうである。

 

 私は佐野の顔を見て「今にも起き上がってくるのでは無いか?」と思ったが、矢張り奥さんは「もう駄目だ!」と云う。

 

 そうして居る内に、佐野の躰を拭くので皆「一旦」外に出てくれと看護師が云う。

 それを聞いて私達は集中治療室から外へでた。

 そして私は佐野の息子に「一旦帰るが、何か有ったら直ぐ連絡を欲しい」と云って病院を後にした。

 

 佐野は3月1日に還暦を迎えたので、享年は61歳だ。

 佐野が死んで、佐野との「祇龍寺の庭」を造って居た時の色んな思い出が脳裏をよぎった。

 

 佐野は生き物が好きな男で「会長、庭に水蓮鉢を置きメダカを入れて、それから縁起物のカメも飼う方がええで」と云ったり、家の前には「ビオトープ」を作り、そこも「メダカ」を入れて、会長の家の前を通る人が「癒される空間を作ろか」と云って、家の前の景観も任せた。

 

 「道路交通法違反にならん様に道幅を測って作るさかいな」と、庭師らしい気遣いもしてくれた。

 私は玄関も庭も全て佐野の発想と「庭師の経験」に任せ、佐野が今まで見て来た中で一番良いと思う庭をモデルに庭園造りをさせた。

 

 庭が出来てもう4年近くになるが、この4年近くの間に植えてある木も随分大きく成長した。

 

 私は自分の家の庭は、京都の「どの庭園」に行っても負けないだけの佐野の庭師としての腕(プライド)の結集だと思って居る。

 築山を造り、打ち水を流し、苔をむさせ「松の盆栽」を並べ「竹林」的なものも造った。

 

 今年は「ダルマメダカ、わしが作るのでそれを持ってくるわ」と云って居たのに、それも叶わぬまま死んだ。

 

 佐野は、私にいつも息子の事を話して居た。

 この息子は高校生やのに「神社・仏閣」巡りが好きで、会長の様に「戦争時代の事にすごく興味を持ってるんや」と常々云って居た。

 

 その息子が、佐野のお通夜の終わりの挨拶で涙ながらに「ここで父の好きだった荒城の月を歌います」と云って大きな声で「春こうろうの 花の宴 巡る盃 影差して・・・」と歌い出した。

 

 私もこの歌が好きな事は、自伝で書いた。

 それだけに、この歌を聞くと今まで抑えて居た佐野への「哀悼の意」が一遍に涙となり、外へ溢れ出たのだ。

 

 高校生の喪主の声と涙と云うのは、聞く者の胸を打つ。

 これから父「佐野吉保」が息子「源(みなと)」を愛した分だけ、この息子も父の事を思い出すであろう。

 

 五仁會を立ち上げる時「会長、一緒にやろう。わしは、会長がする事やったら何でも手伝うで!」と云ってくれた。

 そして「息子の源も、国の為とか云う事が好きなんで、発会式にこの息子も連れて行ってもええやろか」と云うので私は「もちろんやんか」と応えた。

 

 遺影には、その時の発会式で撮った五仁會のバッヂを着けた写真が使われて居た。

 この遺影を見て、佐野も家族の人も五仁會の会員として誇りを持ってくれて居たんだなぁと思う。 

 

 息子はまだ高校生だが、発会式に出席して五仁會の雰囲気はよく知って居る筈だ。

 私は高校生でも、父「佐野吉保」の「志」を継ぎ、五仁會の有志として、出来たらこの息子に参加して貰いたいと思って居る。

 

 佐野の死に顔は安らかな、まるで今にも起き上がってくる様な顔だった・・・

 心が通じ合って居た人とのこの世の別れは辛いが、合掌して冥福を祈りたい。

           癸巳弥生25日 佐野吉保の葬式が終わって・・・竹垣 悟

五仁會・佐野吉保を偲ぶ
五仁會・佐野吉保を偲ぶ

五仁會理事・駿河潤治の男気と竹中組の知られざる真実

 私と駿河潤治の付き合いは、昭和57年から8年に掛けての1年間、大阪拘置所に在監中の時であるから、30数年の付き合いになる。

 私と駿河は、独居拘禁で部屋が近かった所為か、一緒に運動時間を過ごして居たのである。

 

 その中には、若き日の能塚恵(現一心会三代目会長)も居た。

 私達は7・8人の未決拘禁者と一緒に運動をして居たのだが、私はこの駿河潤治と良く気が合った。

 

 だから何かに付け、色んな話しをした。

 駿河には、この当時すでに少なくなりかけた「男気」があったからである。

 私も、云って悪いが「男気」に掛けては人後に落ちないと云う自負は持って居た。

 

 この時私は大拘に1年余り居て、結局「控訴審」でも量刑は変わらず上告をしたのだが、親分である「竹中正久」が、そんなつまらない事は止めて、上告を取り下げてこのまま務めに行った方が早く帰れるから「そうしろ」と云うので上告を取り下げて服役した。

 

 その時は、神戸刑務所へ行ったのだが、昭和61年6月19日早朝に出所して直ぐ放免迎いの場所(土山ながさわモーテルの駐車場)に行き「出所の挨拶」をして、その足で「親分・竹中正久」の墓へ手を合わせに行った。

 

 そして岡山拘置所に在監中だった竹中武に面会したのである。

 もちろん金は差し入れた。

 相手は当時私の親方になって居たので、見栄を張らずに「5万円」だけにした。

 

 その日の夕方、竹中武の保釈が効いて「本宅」で祝宴が開かれた。

 皆んなは「親分、おめでとうございます」と云って、竹中武にばかりビールを注ぎに来て居た。

 

 私も同じ日に出所したので竹中武の横に座って居たが、竹中武への「ヨイショ」ばかりで私のは何も云って来ない。

 竹中組は当時「生え抜き」と「外様」が入り乱れて、親分の前で自分を売り出す事と、格好を付けるのが精一杯だったからである。

 

 私が懲役に行く前(昭和56年頃)は岡山竹中組と云っても、せいぜい組員が20人居るか居ないかの小所帯だったのだ。

 それがいきなり「大所帯」になったものだから、竹中武も胸を張るのに苦労したと思う。

 

 竹中正が相談役になって居たが、いくら竹中武が胸を張っても「兄貴」である竹中正には、どこ迄行っても「兄貴の分」を越えられないのだ。

 それを竹中正さえ越えようとした。

 

 私は出所して、明くる日から竹中武の命令で、相談役・竹中正に付いて居たからそれが良く判るのである。

 

 竹中正は当時・ハワイ事件で人気絶頂だったので、忙しく走りまわって居た。

 だから竹中組の総会へも顔を出さず、堅気の大物社長連中との付き合いの方を優先して居た。

 堅気に人気があったからだ。

 

 しかし竹中武は「組長」である限り、他の組員の手前それが許せない。

 だから私に「兄貴」と云わず「相談役に総会に来る様に云うとけ!」と云う。

 それを竹中正に云うと、今度は「武にこう云うとけ・・・!」と云う。

 

 私は中間に立って、二人のガス抜きになった様なものだ。

 そこは私の「才覚」で、二人が喧嘩しない様に上手く取り繕い、しっかりした男振りを発揮して行かなければならないからだ。

 私は二人にも安く見られない様に、男として頼りないモタモタした面は一切出さなかった。

 

 私が常々思ったのは、どこ迄行っても「弟」が「兄貴」を越えられる事はないと云う事だ。

 「人物」も「スケール」も「歳」も、竹中武より正の方が上だった。

 

 簡単な事なのだが竹中武と云う人は、その道理が分からない位、短期間の内に拘禁病に掛かって居たのだ。

 三つある内の「ひとつ」でも分かって居たら、竹中組も「山口組」と云う代紋のお陰で大きくなったと云うのが解かったと思うのである。

 

 そしたら「長い懲役」に行ってる者の事を考え、自分の「腹の虫」は殺すと思うのだ。

 それが親分と云われる者の「公」の「器量」と云うものだ。

 

 その自覚が無ければ、若い者を長い懲役に行かせられないからだ。

 それこそ親分とは、竹中正久の云う所の「辛抱」を、若い者の数だけしなくてはならない「席」だと思うのだ。

 これが、この歳になってやっと解かった事である。

 

 刑務所に居た頃の話しに戻す。

 「服役中」に「世界の一流品」と云う雑誌を見て、出所したら一番に行こうと思って居た大阪の「ジュエリーナニワ」に出所して何日か経って、貴金属を見に行ったのである。

 

 そこで偶然にも、私はこの駿河潤治と逢ったのだ。

 駿河は私の顔を見るなり「竹垣さんと違いますんか?」と声掛けて来たので、私が「そうや!あれ、あんた駿河の潤ちゃんかいな」と応えたのです。

 「そうでんがな。駿河でんがな。そやけどこんな所で逢うやなんて奇遇でんな。チョット待ってておくんなはれや」と云って何処かへ行ったのである。

 

 そして、少し経って「ナニワ」へ帰って来て「祝儀袋」を渡すのだ。

 私が「潤ちゃん、こんな事して貰たら悪いわ。潤ちゃんも出所したところと違うの?」と云うと「何云うてますねん。こんなもん順番でんがな。わしが先に出たよってに、わしが作法通り『祝』をしますねんがな」と潤ちゃんは堅気なのに「のし袋」に入った「出所祝金」を私に呉れたのだ。

 

 私は5年余りを務めたのに、竹中組からは竹中武・竹中正両人を始め、誰一人からも祝儀は一円の金も貰った事が無い懲役だったので、喜んで受け取ったのは云う迄も無い。

 

 私の事件は、個人事の5年余りの懲役だったが、それにしても出所者に一銭も出ない組はこの世に有るのかと不思議に思った。

 いくら「山一抗争」の最中であっても、極道をして居れば出所祝時に「祝儀」のひとつも包むのが「ヤクザ社会」の暗黙のルールだと思うのだが、それが竹中組には無かったのだ。

 

 先程少し触れたが、私が5年余りを務めて出所後ドライブインの駐車場で「放免の挨拶」をした時、その時すでに竹中組より直参になって居た須藤潤と佐藤邦彦は共に「10万円」入りの祝儀をくれたが、他の直参に昇格して居た組の親分(加古川の森田唯友紀も姫路の牛尾洋二)も「おめでとう」と一言発して終わりである。

 

 私はこの時、四代目竹中正久親分が死んで、竹中組の体質も変わったと思った。

 懲役から出所した者には互助会的な意味も有り、たとえ個人事にしろ「組」から、いくらかの金をするのが当たり前なのだ。

 

 私は会費は極道をしてから「終わりまで」ただの一度も遅れた事も滞納した事もない。

 それなのに(当てにして居た)放免祝の金が貰えなかったのである。

 

 この時「正直」私は竹中組の「士気」を見た思いがした。

 この「士気」が竹中組の早晩の崩壊を早めた一因であると私は思って居る。

 

 そんな中での駿河潤治の私への気配りだったので、尚更嬉しかったのだ。

 この時の駿河潤治の「男気」が「今まさに国難が来るやも知れぬ」と云う時に備えての「五仁會」発会式のメンバーに繋がって居るのである。

 

 この駿河は30数年前に、若気の至りでチョコット刑務所に入ったが、それ以降真面目に運送屋をして現在に至って居る。

 

 私は駿河潤治と云う30数年来の友人の協力を得て、五仁會を立ち上げ、今こうして世の為・人の為に社会貢献の第一歩を昨年5月から踏み出して居る。

 私も駿河も還暦を過ぎ、この歳になって、お国の為に尽力出来るのは幸せであると思って居る。

 

 余談だが、私が古川組に行って若頭・入江秀雄が存命中は、入江が私の兄弟分2人を破門にすると云うので、幹部会の席でよく揉めた。

 一極会の中村政義が「兄弟と入江の頭との話しを聞いて居たら、幹部会違いまんがな。まるで喧嘩でんがな」と云って居た様な関係だった。

 

 そういう意味ではこの入江が私のライバル的存在だったが、入江が本部事務所内で同じ古川組の若い者に殺られてから以降、私のライバル的な存在になったのが舎弟頭(二代目体制では組長代行)の西林健二だった。

 

 その「西林」が死んだと、この駿河から連絡を貰ったので、私は死んだら「仏」なので、どんな過去のいきさつが有ろうと全て水に流す事にして居る。

 

 私は当時はすでに古川組から破門状が廻り破門になって居たが、それでも私は聞いた限り西林邸へ行って焼香する事にした。

 古川組の者や西林の若い者と逢っても、私は男として何等やましい事はないからだ。 

 

 そして西林の仏壇に、駿河と手を合わせに行った。

 その時、西林の姐さんがものすごく喜んでくれた。

 

 そして「私とこ(西林健二)は竹垣さんの事を認めて居たから、あんたには何かに付けて辛く当たったと思う、けど堪忍したってよ」「そやけど私は竹垣さんが来てくれるなんて夢にも思わなんだ。ほんまに嬉しいわ」と心の底から云ってくれたので私は「来て良かった」と思った。

 

 この時程、故人の冥福を祈りに行って良かったと思った事はない。

 私は西林と何も喧嘩する程の仲でもなかったが、それでもやっぱり西林は、私のハッキリした性格とイケイケの性格に一服して居た分、煙たがったのである。

 人間誰しも煙たい人間は周りに置きたくないと云うのが人情なのだ。

 

 ついでに云うなら私が執行部を下りてから、古川組は幹部会を一回もした事がない。

 私が執行部を下りる時、古川真澄に「大事な事は上(古川)と下(竹垣)で決めたら宜しいやんか」と云って居たのを他の古川組の者は皆、知って居たからである。

 

 私はこれだけは、極道として私の勲章のひとつであると思って居る。

 その西林が死んで、年一回竜野の赤とんぼ荘へ私の嫁や娘達と一泊どまりで桜を見に行ったりして、親しくして居た古川の姐さんも死んだ。

 

 この姐さんが死ぬ前、私に逢いたがって居た

 それで連絡を貰い、行ったらすでに虫の息であった。

 

 でも姐さんの実弟である田中勝が連絡をくれたお陰で姐さんの死に目にも逢えた。

 姐さんが死んで、私も古川家とは縁が切れた。

 

 この姐さんには、私が懲役に行って居る間に、私の嫁の話し相手になってくれたりして本当にお世話になった。

 この古川律子姐さんの冥福を祈りながらペンを擱きたいと思う・・・

                       平成25年弥生20日  竹垣 悟

五仁會理事・坂本志信の拳銃と竹垣悟バット殴打事件

還暦前の竹垣悟の背中の一匹竜・還暦の日に朱赤で化粧直ししたものはいずれ公開する
還暦前の竹垣悟の背中の一匹竜・還暦の日に朱赤で化粧直ししたものはいずれ公開する

 この男は、私が現役の頃「会長相談役」に「礼を尽くして迎えた」古くからの私の弟子のひとりである。

 

 私がバットで殴られたのは、様々な場面で述べて来た。

 しかし今迄、その場面を抽象的に述べた事はないのだ。

 今ここで、その場面を描写してみたいと思う。

 

 坂本志信は、その時の「返し」に使用する拳銃(チャカ)を所持して居て逮捕され、懲役4年を宣告され、神戸刑務所で服役した男である。

 私の教えである「治に居て乱を忘れず」を実践して居たひとりでもあるのだ。

 

 今思えば、この坂本が所持して居た「拳銃(チャカ)」は、「アッチ」「コッチ」の手を渡り、最後に大阪府警の手に落ちたのである。

 坂本志信は、ガンマニアで、モデルガンと一緒に、壁にこの拳銃(チャカ)を飾って居たのを府警の手によって押収されたのだ。

 

 坂本曰く「親分(私の事)、大阪府警の捜査能力は大したもんでっせ。ずっと壁に飾っといたのに、府警の刑事だけがモデルガンと本物のチャカを見分けよったんですわ。参りましたわ。ほでも、4年で良かった。初犯やったけど、懲役では色んな勉強をさせて貰ったよってに」何事もプラス思考に考え「災い転じて福と成す」を実践する、坂本志信とはこう云う男である。

 

 これが坂本志信が「神戸刑務所」を出た時の「私への出所第一声」だったのである。

 「私の為」に「務めた懲役」なのに、そんな気遣いを私にさせぬ為に「こんな事を云う男」である。

 私は、この坂本志信を見て「つくづく」良い「侠」たちに恵まれて来たと思ったものだ。

 

 私がバットで殴られ「死に遅れた時」の事に話しを戻そう。

 相手は同じ山口組系の大石組であった。

 

 私は、大石組の者に「バット」で「ドカン」とやられる前、私の若い者・三木主税(ちから)が大石組の者と揉めて、1対1で逢おうと云う話になったそうである。

 

 三木主税も「正直な男」で、その待ち合わせ場所に(約束通り)一人で行ったそうだが、その待ち合わせ場所に行ったら相手の男は約束を破り「若い者数名」を連れて来て「あろう事か私の若い者を車で攫(さら)って行った」らしく、そこで「やられた」のである。

 

 私は本人に内容は何も聞かなかったが「他の者から聞いた話しでは」そこで数人の男に踏んだり蹴ったり「トコトン」やられたそうなのだ。

 

 三木主税は、その前に個人事で網干警察署に捕(パク) られた時、私に悪いと思い、留置所の便所の戸で「指を詰め」「切断した」程の信義に厚い「豪気な男」なのである。

 体格も良く、空手も有段者の好青年なのだ。

 

 私にこれ程の「筋」を通した、若い者が「やられて」私は黙って辛抱出来る男ではないのだ。

 私の「可愛い若い者」が、やられて黙って「涼しい顔」は出来ないのだ。

 だから私は即座に、相手の「組事務所」に「日本刀」を持って「乗り込む」事にした。

 

 私は酒も少し入って居たので、相手に対する怒りは更に募り「日本刀」を持って相手の組へ「殴り込んだ」のである。

 もちろん相手の組は「イケイケ」の「私の性格」は良く知って居るので、私が相手の「組事務所」に「殴り込み」に来るのを「バット」を持って数人で待ち構えて居たのだ。

 

 相手の組に道具(チャカ)は無く、有るのは野球バットだけである。

 ヤクザとして情けない限りなのだ。

 

 そのバットで、私がまさに組事務所の戸を足蹴りにして・・・と思った瞬間、後ろからバットで強打され、そのまま私は意識を失った。

 

 その事件が有って直ぐ、古川組と大石組の話しになり、古川組から当時舎弟頭をして居た西林健二と若頭の古川恵一が、相手方の大石組から若頭の村上平衛と舎弟頭の牧敏夫が顔を出し、事後の話しをしたそうだ。

 

 その話し合いに行く前に、恵一に「兄貴、やられっぱなしでっか!」と云われたが、黙って聞いて居た。

 

 大石組との話し合いが終わり、古川組本部へ恵一達が帰って来て、私と逢った時「兄貴、兄貴の所も相手方の事務所へチャカ弾いてますやんか。そんな事云ってくれなあきまへんで」と云う。

 

 ヤクザ同士の抗争は「組事務所」を弾かれたら、その「弾痕」が残って居る箇所は「綺麗に削る」とかするので、私が良い格好を云って相手に黙られたら「ヤクザ」としてホラ吹き男になってしまうのである。

 だから私は「逸る心」を押さえて黙って居た。

 

 男の中の男とは、相手も殺してないのにガラス一枚割った位で偉そうに云えないものである。

 それは中野会で良く教えられた事なのだ。

 中野会と云う所は、ガラス割りは破門で、チャカが警察に摘発されたら罰則が有るのだ。

 

 私所の「義竜会」は、続けて3回チャカが上がったので、私は「役職を降格」になり「謹慎」で「本部事務所」に1ヶ月間寝起きさせられた事もあるのだ。

 

 私も、ダイ・ハードのブルース・ウィルスのように懲りない男で「2回目」にバットでやられた時、その時も酒を飲んでこの時は流石に「生きるか」「死ぬか」の瀬戸際までやられて「奇跡的」に助かった。

 

 私が集中治療室で生死の間を彷徨って居る時に(早い話がやられたまま)本部同士で話しがついたのだ。

 運悪く生き残ったが、生き残ったら「生き残った」で私は又、生来の自分に戻り、そんな「やられっぱなし」の話し合いには納得出来ず・・・

 

 この時の思いは、私が古川組を出て直ぐ、笹部静男(元・竹中組総本部長・当時西脇組舎弟)に、「俺もやられっぱなしで辛抱出来ん」「そない竹垣が云ってると、西脇のおっさん(阪神ブロック長・西脇和美)に云うてくれ」と云うと、笹部も信義に厚い男で、その旨西脇和美に伝えてくれた。

 

 その西脇和美の返事が笹部から返って来た。

 そして笹部は「会長(私の事である) 云うたで。そしたら西脇が、そんなら古川(真澄)さんも何で本人(私)が入院しとるから、本人が退院する迄待ってくれと云わなんだんやろ。今頃こんな事を云うと、当時の執行部が皆、下手を打つがな」と西脇和美が云って居たと云う返事をくれた。

 

 私は一理あると思い、笹部に「悪かったなぁ」と礼を云い、話を引いた。

 笹部が竹中組に在籍当時、若頭をして居て(後に総本部長になった)組の事で金が必要になり、竹中武に金を借りたらしく、その追い込みを「20年間服役」して務めて帰って来た矢先の「高山一夫」に「西脇組本部」まで取りに行かせたと聞いたので、当時私は「竹中武」と昵懇にして居たので「親分(竹中武のこと)貸した金を取りに行かせたら、その時点でむかし親分・子分やっても、その縁は切れまっせ。そんな事、親分程の人がしたらあきまへんがな」と云った事を「笹部」が私に「恩義」に感じ、それでその時も西脇和美に話してくれたのだ。

 

 笹部とは、そう云う男だったのだ。 

 この笹部静男も、竹中正久の薫陶を受けた一人なのだ。

 

 私が「2回目」に「バット」でヤラれた時の話しに戻そう。

 私は酒が入ると人間が変わる方で、酔う程に理性を失うタイプである。

 

 その時も「ムカッ」と私の心に怒りが込み上げ、そう思いかけたら酒の勢いもあり、相手の東陽一郎に電話したのだ。

 そこで東と逢って居ると、私の若い者「二人」が心配して、その店に鼻息も荒く勇み足で入って来たのだ。

 

 そこであろう事か、又その二人が東の若い者達と乱闘騒ぎになり、喧嘩になったのである。

 そして殴られたのだ。

 

 私の目の前の事なのである。

 でも私は「青い城事件」で田端義夫に絡んだ明友会のチンピラの事を思い出し「田岡一雄」のその時の「所作」を自分に置き換え「腕を組んで黙って」酒をグイグイ飲んだのだ。

 

 喧嘩は多勢に無勢なので、後日に期そうと「煮え湯 」を飲んだのである。

 そのうち飲む程に酔い、頭は空回りし出したのである。

 回りの景色もグルグル廻るような感じで、完全に酩酊の度合いが深まって行ったのだ。

 

 そんな時、私は酔ったなりの頭で、その場を押さえ「本部当番の前日」だったので家へ帰る事にした。

 そこで私が酒に酔った時の「豪気」と云うか「調子良さ」と云うものが出て、相手と一旦休戦みたいな状態になった。

 

 だから相手の東陽一郎も気持ち良く私を家に送ってくれたのだが、一足先に私の家に帰って居た「殴られた当事者」の岡本泰与矢が「どうしても辛抱出来ない」と云うのである。

 

 私も酒を飲んだらええ加減なもので、気持ち良く家まで送ってくれた東陽一郎を思いっきり殴ったのである。

 すると東陽一郎は、4階の私の部屋から飛び出て、外で待機して居る組員に、大きな声を出して、助っ人を求めて外へ出たのを私は追い掛けて行ったのである。

 

 私所も若い者が事務所にも5人居り、合計7人居たのである。

 それでも私が先頭を切って階段を下りた「瞬間」相手の若い者は下で「消火器」の「栓を抜き」階段を目掛けて「振り撒き」事務所兼自宅の階段から入り口付近は煙で真っ白になり、目の前は「何も見えない状態」になった。

 

 「何も見えない中」そこを突き抜け外へ出たと思ったら、いきなり「バット」で私の顔面を強打されたのだ。

 私は一撃で「まとも」にバットを顔面の鼻柱に打ち付けられ「ノックアウト」である。

 

 そして次に下りて来た岡本泰与矢が私の上に覆い被さり、私の盾となって私を庇ったのだが、相手の勢いに乗じた攻撃は止まり様がなく、次に水神翔が飛び出して来て、これも何ヶ所か骨折するぐらいやられて、これは阿保病院に入院した。

 

 この情景を一部始終私の嫁が見て居たので、ここら辺の事情は私も分かるのだ。

 嫁は「親御さん」から私が預かった大事な体の「岡本泰与矢」が死んでしまうと思ったので、咄嗟の行動で下へ降りて「相手の行動」を制止したと云うのだ。

 私は「不死身であり」「仮に死んでも保険が入って来るので心配しなかった」と、冗談まじりに嫁は云うのである。

 

 なにぶん「乱闘場所」が私の事務所の前であり「繁華街のド真ん中」なので相手が気を利かしたのか「私達が死んだら困る」と思ったのか、私と岡本を病院の前に運び、そこで下ろして置いて行ったのだ。

 

 私所の後の5人の男達はそこで意気消沈、親方の私と岡本泰与矢、それに水神翔がバットでバシバシやられて居たのを2階の廊下で身を縮めて見て居たというのだ。

 

 私は気が付いたら「日赤病院」の「集中治療室」に居た。

 そこの入り口には「阪神ブロック長」の「西脇和美」が静かに座って居た。

 私は「気力」と、私の「魂の限り」で「生と死の間」を彷徨った。

五仁會理事・泉州彫信こと坂本志信
五仁會理事・泉州彫信こと坂本志信

 坂本志信は、私の背中の一匹竜を途中から仕上げ、還暦の日に、8時間掛けて紅色に化粧直しをしてくれた男なのだ。

 

 私の背中の竜を最初に彫った男は、森中義雄と云い、右翼団体「義友塾」の塾長も兼ねて居り、竹中組では竹中武の運転手をして、姫路市竪町の新竹中組本部事務所でずっと住んで居た男としても知られる。

 (この森中は、私の入墨を彫り掛けて少し経ってから、女を数十箇所刺して殺した。そして自分は、その後鉄道に飛び込んで死んだ) 

 

 後日譚だが、私はその後、半年位入院したままだったが、その間に古川真澄が大石誉夫と話し合い、手打ちは済んだと聞いた。

 

 話しが終わって、私所の事務所へブロック長の西脇和美と、大石誉夫が来て、私の嫁と、当時義竜会若頭をさせて居た剣(本名・渡辺)真文に大石誉夫が、自分が敷いて居た座布団を取り「畳に手を付いて」「深々と頭を下げ」「此の度は、申し訳ありませんでした」と礼を尽くして詫びを云ってくれたそうである。

 

 剣真文は「あれ位の大親分が、わしらみたいな者にあんな丁寧に断わりをしてくれた」と感激して居たが、私は「お前アホか。俺らに頭を下げたんと違て、古川真澄に頭を下げとったんやど」と教えたのです。

 それ位、古川真澄と云う男は凄い男でした。

 

 大石誉夫が帰る時、封筒の厚さから行けば1,000万円位は入って居たと云う「見舞金」と「メロン」を置いて行きそうだったので、それは丁寧に断わったと後で「嫁」と「剣真文」から聞いた。

 

 私の「哲学」は、金を貰ってしまったら、その「物事」はそこで終(しま)いなので、私は金で「男の誇り」を「解決しない」のです。

 でないと、自分で「やり切れない程」「虚しく」なるのが分かるからです。

 

 金は遣ったら無くなるが、自分の心は生きて居る限り、その気持ちを持って居れば「志し」は変わらないのです。

 これは、私の子供の時からの考えであり、母親に教えられた、人間としての教育の結果なのです。

 

 「蔵の財産」は無くなるが「身に付いた財産」は「永遠」に無くならないのです。

                     平成25年弥生9日  竹垣 悟 

 

 大石組とのその後の顛末

 

 大石組に対しての「西脇和美の返事」は笹部静男から聞いて私も納得して引いたが、肝心な大石組に対してのケジメが私の心の中で、まだ着いてなかったのである。

 だから私は笹部から返事を貰って「直ぐ」当事者の組である「大石組内牧組の本部事務所」へ直接1人で足を運んで行った。

 

 そして当番の者が「どちらさんですか?」と私に聞くので「竹垣や、組長おるか?」と云ったのである。

 すると当番の者がびっくりした様な顔で私を見て、組長の「牧敏夫」に電話をしたのだ。

 

 そして繋がったので、当番の者が盛んに話して居るのを私が横で聞いて居ると「牧敏夫」が私に「電話を替わって欲しいと云って居る」と云う。

 私は即座に当番の者から受話器を受け取り「牧敏夫」と話した。

 

 「牧」は「そこ(事務所)やったら具合が悪いので、飾磨の喫茶店・明日香まで来てくれまへんか」と云うので「分かった」と答え、場所を飾磨の「明日香」に移して話す事にしたのだ。

 

 私はベンツを運転して、現場へ向った。

 「牧」も、ほぼ同じ頃「明日香」に来た。

 

 そこで私が「俺も古川組を出て今は堅気になったし、だから堅気になった今こそ、俺がやられた時のケジメだけは付けておきたいんや」と云うと「牧」は「あの時の話しは付いた筈やけどなぁ」と云う。

 

 私は「何も聞いてないし、また俺自身やられっぱなしで辛抱出来る訳無いやろ」と云った。

 「牧敏夫」は「わしは今、大石組の会費も払えない位貧乏しとんで、舎弟頭を降りて相談役になってるんや」と云う。

 だから「金」やったらおまへんでと「ハッキリ」云うのである。

 

 そして「牧」は、あの時の事件は「わしの若い衆のした事件や。そやからわしにも責任がある。このわしの体で良かったら、どないでもしてえな。今のわしは、こんな体やし、女と喧嘩しても、子供と喧嘩しても負ける。そやからこんな事しか云えんのや」と更に続けて云う。

 

 私は上から物を云われると「ヘソ曲がり」なので、それ「以上に強く」出る男だと云うのは、姫路では「知る人ぞ知る」の有名人だ。

 しかし「牧」は下から来たのであるが、これで「情」に絆(ほだ)される訳には行かない(ここは私も少々参ったが、心を鬼にして)

 

 私はその言葉を聞いて「牧」の胸倉を掴んで「なに!」と云った。

 私も「牧」の胸倉を掴んだ瞬間、少し気勢が下がったのも事実だ。

 

 それでも山口組に居た当時に「思って居た」事を考えると、情に流される訳には行かず「ここで相手の牧に、私が或る条件を出したのである」

 もちろん「金」以外の条件である。

 

 「牧」からの返事は「わしも組織の一員やさかい、この話しは頭(かしら・村上平衛)と相談してから返事をさせて欲しい」と云うのである。

 私も極道として当然な事であると思い「了解」した。

 

 そうして日にちが過ぎて行き「牧」が私に約束の返事をして来る日にちが間近に迫って、山口組から古川恵一の名前で私の破門状が出たのである。

 

 これは、大石組の相談役をして居た「神戸の二代目松正会々長・山本真喜夫」と「西林健二」が博奕で行き来があり、兄弟分以上の付き合いだったので、私はこの二人が私の破門状の絵を画いた張本人だと思って居る。

 

 西林健二は、私に常々「兄弟、兄貴(古川真澄)を引退させて、恵一を二代目にして、わしらでええようにして行ったらええやないか」と云って居たのだ。

 それを私が「西林」に「兄弟、親父(古川真澄のこと)が極道に未練があるのに、そんな事出来る訳ないやろ」と云って居たからである。

 

 私は「古川真澄」から「極道」にまだ「未練」があるような話しを「直接聞いて居た」ので、そんな話しに乗れないと「ハッキリ」断わって居たのである。

 そんな、筋道を通す私が煙たかったのも事実なのだ。

 

 結局「破門状」が廻って、この話しは立ち消えになった。

 私の破門状が廻った時点で「牧」に出した私の条件も立ち消えになる物事だったからである。

 

 私は今「冷静」に考えると、それで「良かった」と思う。

 綺麗事で云うなら「牧敏夫」と云う男の「若い者」想いには、男として感激したのである。

 

 「牧敏夫」のこんな所作は、親方と云われる人間でも、中々出来るものではない。

 私が「牧組事務所」へ乗り込んだ時点で「若頭」なり「責任ある立場の人間」を何人かで私に当て、話しをさせれば良いからである。

 

 しかし考えれば 、またそれで元の木阿弥になり、親方の値打ちを下げるだけだが・・・

 この時、まだ若い者想いの「親方」が、この播州の地に居たんやな、と思い妙な所で少し嬉しくなった。

 

 極道をして居て、この「牧」の様に「1人」で相手に掛け合い「話しの筋を通せる人間」が、今は「ほんの一掴り」の人間だけに成ってしまった様に思う。

 

 時代の流れだと云ってしまえばそれまでだが、淋しい限りだ。

 この「牧」も、長年の闘病生活が尽き、あの世に行った。

 

 「昭和の気勢」を残した、男としての「心構え」を持った「極道らしい極道」がまた1人「鬼籍」に入ったと云うのは淋しい限りである。

 

 「敵ながら良い男に逢えて良かった」と云うのが今の私の正直な感想である。

 そんな「牧敏夫」の冥福を祈りながらペンを擱きたいと思う。   合掌

                    平成25年弥生12日  竹垣 悟 

弾き出された半端な命 捨てても未練があるじゃなし 義理も人情も紙風船だ これがヤクザの  これがヤクザの生きる道  意地を賭けたら一分も引かぬ 来るなら度胸を決めて来い 聞いてくれるなヤクザな世界 俺は笑って  俺は笑って行くだけさ   鶴田浩二の「無情のブルース」より
弾き出された半端な命 捨てても未練があるじゃなし 義理も人情も紙風船だ これがヤクザの  これがヤクザの生きる道  意地を賭けたら一分も引かぬ 来るなら度胸を決めて来い 聞いてくれるなヤクザな世界 俺は笑って  俺は笑って行くだけさ   鶴田浩二の「無情のブルース」より

刑務官だった経歴を活かす作家侍 五仁會顧問・坂本敏夫

 坂本敏夫は作家で、五仁會では犯罪者更生部門専門であり「俳優」や「コメンテーター」としても活躍する男である。

 

 元刑務官で大阪・神戸・東京拘置所・法務省事務官・東京管区専門官など7つの施設での勤務経験もある、将来を嘱望された刑務官だったのだ。

 

 私は、四国の善通寺にある「青少年更生社・西山俊一郎」から紹介され「その後」偶然にも逢う機会があり「意気投合」した。

 先程の「更生社」の西山は「小宮悦子」の司会する「ニュース番組」に「更生シリーズ」として紹介され、当時話題になった男である。

 

 この西山を連れて、五仁會の「発会式」に出席してくれたのが「山口組VS松田組」の「抗争」で、その名も高き「武闘派組長」として山口組に「歴史」を残す「盛力健児」である。

 

 盛力は「極道社会」から離れ「仏の道」に入り「嵩山少林寺グループ」の「総帥」としてアジア全域で活躍している。

 名も、平川徳盛と改め「釈徳盛」としての法名も得度している。

 

 西山も平川も共に「少林寺グループ」の総帥で「仏の道」に生きる「豪傑」である。

 いずれも劣らぬ「武道活動家」として知られる。

 私は平川や西山とも「日本古来の伝統」を重んじる「武士道精神」を継承する事で「志し」を同じくしている。

 

 坂本敏夫は、元刑務官らしく「柔道」の猛者である。

 私は、この坂本と何度も一緒に歩いたが、足腰が強く荷物を持っても「粘り腰」のある、流石・奄美育ちだと感心する位、気力が充実し、体力に優れた男だ。

 

 気は若く力持ち、刑務官時代の仇名「ポパイ」そのままの男である。

 私も「物書き」だが、私と坂本の「作風」は少し違い、二人の個性が違う分「作品」も「異風」を為すのである。

 

 私は坂本に物を書く上で、偉そうに云える程の男ではないが、その私の「作風」を時折り「良かった」と坂本が励ましてくれるのが嬉しいのだ。

 特にこの「ホームページ」は、坂本も絶えず見て居てくれ「私のペン捌き」に「賞辞」を贈ってくれるのだ。

 

 坂本は「本物」の「ボランティア」男で、私はこの坂本と「縁」が出来た事を心より喜んで居るのである。

 元刑務官なので「守秘義務」があると本人は云うが、私にはそんな物はない。

 あるとするならば「ペン」によって人の名誉を傷付けると云うような「名誉毀損」ぐらいのものであろうか・・・

 

 「歯に衣を着せぬ」私の性格だが、そんな性格が「ペン先」にも出るのだろう。

 断っておくが話題性を求めて、人に提訴される様な「性悪」な「ペン捌き」はしない。

 また、そんなゴロ新聞のような野暮な事をする男ではない。

 

 これは断じて云っておく!

 するのであれば「次」の「一太刀」が出せるようにして、戦う準備をするような男が竹垣悟なのだ。

 これが私の強みであり、技(わざ)なのだ。

 

 話しが逸れた。 

 坂本は、奄美大島の出身で、系譜を辿れば母方の祖母が西郷隆盛が奄美大島に流罪されていた時、娶っていた「愛加那」の流れを引き、母方の祖父が「安政の大獄」で有名な「井伊直弼」を桜田門外で暗殺して、時代を変えた男として知られる「有村次左衛門」である。

 

 「桜田門外の変」を東映京都撮影所で「日本暗殺秘録」と云う題で制作した時、この「有村次左衛門」を演じたのが、私の「東映時代」の「親分」「若山富三郎」であっただけに、坂本敏夫とも尚更「奇縁」と云うものを感じるのである。

 

 私は、坂本敏夫と宮前・新免を伴なって、(他の五仁會の幹部・坂本志信・駿河潤治・桑野勝彦・外2名は現地で合流し)「青少年更生社」の「西山俊一郎一派」と大阪ミナミの小料理屋で会合し、今後の「更生活動」を話し合う為に上阪した。

 

 その時、店へ行く前に少し時間が有ったので「大阪生國魂神社」へ参拝に行ったのである。

 すると目の前に「有村次左衛門」の石碑があり、その石碑を私や宮前・新免が見て居ると坂本が「この人、私の先祖ですよ」と云うのである。

 

 私は田中河内介が、京都からこの生國魂神社に参拝して九州へ下ったと豊田小八郎著「田中河内介」昭和16年3月10日発行で読んで知ったので、行ったのである。

 こんな絵に画いたような、ドラマがあるのだ。

 

 この坂本は不思議に、その場に来たら、これ私の「何々ですよ」と云うのである。

 これが本当だから、坂本の人物の潔さを改めて私は知るのだ。

 

 私と坂本の「合縁」も、突き詰めて行けば、矢張り「田中河内介」絡みである。

 そんな私が、坂本に縁を感じるのは「幕末」の頃の「臭い」を感じるからであろう。 

 坂本には「坂本龍馬」の写真を掲げたい。

 龍馬のような「気宇壮大」な心で、時代を駆け抜けたいと願う「代表・竹垣悟」の想いである。 

 そして「海援隊」のように「五仁會」も歴史に名を残すようになれば幸いである。

                      平成25年如月24日 竹垣 悟 

 写真左は「特定非営利活動法人・日本青少年更生社」理事長・西山俊一郎である。

 この西山は「金剛禅少林寺拳法」宗道臣門下だ。

 

 伝統有る道場を「善通寺」で開き青少年達を連日鍛えている。

 「坂本敏夫」は、この西山とは古くからの付き合いなのだ。

 

 西山もまた「犯罪者更生活動」を坂本の指導により、更に充実したものとして「生涯」の「ライフワーク」としている。

 西山曰く、犯罪者がこの世にある限り「罪を憎んで、人を憎まず」の精神をわしは生涯持つけんね。

 

 「そりゃやっぱり、わしは仏に仕える身じゃけん」と余韻を残して話しを切った。

 撮影は「マッドマックス」専属カメラマン「吉永マサユキ」である。

 

五仁會原点の思想・竹中正久を語る

 我々「五仁會」は、竹中正久の教えを受け継ぎ、後世に名を残す人材を育成して「国家社会」に貢献する事を目的として、今もこうして「五仁會」の思想を追い求め、その中に「精神的支柱」となる人物を描くのである。

 

 人を知り、己を知れば百戦あやうからずとは、孫子の兵法である。

 私は、その孫子に学んだと云う竹中正久の言葉に耳を傾け、田岡一雄の教えを静かに拝聴したいと思うのだ。

 

 私が人生の「師」として誇れる人物の教えを語ることこそ有意義な「人生の講義」となるのである。

 私のあり余るいくつもの過去を振り返る時、いつも過去の私がそれを証明してくれるのだ。

 私が実感して来た事を、読者に感じてもらえれば、これこそが私の望む「講義」となるのである。

 

 それでは「竹中正久」に関して私が研究したことを先ず、述べてみたいと思う。

 私が知り得る限りに於いての親分竹中正久の性格は、一言で云えば豪放磊落、意志頑強な人である。

 

 しかし「頭脳明晰」且つ「致密で繊細」な神経をしていた。

 そして「統率力に長け」一家の総帥としては、限りない「懐の広さ」を持っていた。

 

 これこそ竹中正久が、日本一と云われる山口組の首領になり得た枢要であろう。

 これ程の資質を持ち併さなければ、天下の山口組の総帥にはなれないのだ。

 これ以外に竹中正久の特質として、自己に殊の外、厳しかったことを挙げなければなるまい。

 

 また竹中正久は、ヤクザとして味わうであろう下積みの苦労や、警察での過酷な取調べに打ち克つ我慢強さを「伸びて行く」男の第一条件とした。

 

 それだけに、我々当時の若者に対しては常々「辛抱」することの大切さを説いていた。

 もちろん竹中正久の忍耐力は、常人の域をはるかに超えた、強靭そのものであった。

 

 それが警察に逮捕された時に、よく現われているのだ。

 竹中正久は一度逮捕されると接見禁止はおろか、長期間拘留されるのが常だった。

 

 「保釈というもんがあるから皆ペラペラしゃべって、早よ出よ思うんや。一旦パクられたら保釈で出よなんか思うな」とよく云っていた。

 こうして考えてみると、巷間伝えられているイメージとは多少異なっていようか・・・

 

 竹中正久に被せられたイメージだが、猪突猛進「凶暴これにつき」というところだが、これとて私に云わせれば竹中正久なりのパフォーマンスであり、四代目山口組のイメージ作りに腐心した結果の言動とも思えるのだ。

 

 竹中正久はことほど左様に、何事にも熟慮を重ね行動していたのである。

 これらの一例として、山口組、組旗入魂式に際しての機動隊に対する「咆哮」

 竹中組事務所に対する当局の家宅捜査時の「恫喝」にもそれが見て取れるのだ。

 

 また竹中正久自身も、それらしきことをサンデー毎日の取材班に答えている。

 要は作為的であり、思慮深いのである。

 

 「知恵とチンポは、この世で使え」という竹中正久の口ぐせが、ここでも生きているのだ。

 それだけに竹中正久は「自分を守る」のは「自分自身」だとの「信念」のもとに、法律等にも精通し、六法全書のヤクザに適用されるであろう条項を諳(そら)んじていたほどである。

 

 或る時竹中正久は「ボディーチェックするんやったら、警職法に基いて身体捜索令状を用意せなあかん。職務質問の項目はあっても、本人の同意なしに、無理矢理チェックは出来んはずや」と云っていた。

 

 これとて「彼を知り、己を知れば百戦殆うからず」と喝破した孫子の訓えを実践しているのだ。

 この孫子の訓えは、かの皇帝ナポレオンも座右の書として紐解いていたと云う。

 孫子の特異とされる点は「戦わないで勝つ」ことがベストだと云っていることだ。

 だとすれば武力行使より政治戦略、すなわち「政治力に重きを置け」と云うことか・・・

 

 知識は書物から学べるが、応用を身につけるには経験を積まなければならない。

 生きている限り「人生皆師」とはよく云ったものだ。

 こう考えてみると、孫子には世知辛い世の中を生きて行く知恵が満載されているようだ。

 

 この孫子の訓えに親分を導いたのが、他ならぬ吉川英治著の「宮本武蔵」であろうと私なりに推察するのである。            平成25年卯月18日  竹垣 悟

 

五仁會理事・新免正礼と宮本武蔵の縁を見る

  ここで作州宮本村・新免武蔵こと「宮本武蔵」の「縁」に繋がる「新免正礼」に就いて述べてみたいと思う。

 

 この新免は若手乍ら、五仁會理事に名を連ねる「FXトレーダー最高ランク・ダイヤモンド」の評価を認定された男でもある。

 

 本人に云うと「こそばい」ぐらいの表現をしたい程の真面目さと誠実さを「徳」とする男である。

 弟子の中でも私が最も信頼を寄せ、側近として鍛えている弱冠32歳の若手ホープである。

 

 「思想」「考え方」「今後の日本の在り方」を論ずる私に共鳴し、私の弟子になった男である。

 私は、この新免に「竹中正久」が私を鍛えたように、私もこの男を鍛えているのだ。

 

 私が各地を旅する時に連れて行き、私の行動の中から「所作」「思慮」「人に対する話し方」そして「接し方」を学ばせている。

 そんな私の姿を通して、人格を磨かせている、私の手駒の「エース級投手」なのである。

 

 ここで五仁會発会式の司会を担当した、グレイスプランニングの「西口紗矢」の言葉を引用してみたいのである。

 

 西口は大きな明るい声で、新免の方に手を向け「今から紹介する新免正礼さんは、竹垣代表の生き様に憧れ、キックボクシング・ムエタイに情熱を傾け、世の中に役立ちたいとおっしゃる若き情熱家である」と大きな声で、拍手と共に紹介した。

 

 私が「健全な精神は、健全な肉体に宿る」と云う格言を、若さの中で実践させ、世の中に役立つ男として教育中の若きサムライである。

 

 野球のバットは、野球の球にしか当ててはならないと云う、野球小僧のルールも私はきっちり教えている。

 群れの中でしか生きられない小さな男ではないのである。

 

 1匹50キロの魚は強いが、100匹まとめて50キロの魚は、1匹になれば、ほんとに軽くて小さな魚になるのである。

 私は群れの中にしか、男を見い出せない愚連隊男は、今の時代には遅れて居るとして見ている。

 

 重い鎖が付いた象は、より早く走れないのである。

 「必殺・必勝」喧嘩をするなら、相手を殺し、自分も死ぬ覚悟で思いっきり戦ってみるのが男である。

 

 男とは「ハチの一刺し」と豪語して、田中角栄をロッキード事件の証言台で刺した女のように生き続けてはならないのである。

 ハチは、人を刺せば死ぬのが、ハチのハチたる運命なのだ。

 

 女もハチのようにスパッと、あの世に行く覚悟がなければ悪い事をしてはならないのである。

 むかしの武家社会の細川ガラシャのような女こそ、親である明智光秀の汚名を晴らした女の鏡なのである。

 

 話しを新免に戻してみよう。

 この新免は、五仁會幹部として日夜奮闘、努力して肉体的修養を毎日の仕事の中でも、している働きマンでもある。

 

 新免正礼に私は、現代若者の明日へのエネルギッシュな力を見るのである。

 最後にこの新免の趣味を紹介しておこう。

 

 海が好きで、私とはジェットスキーが共通の趣味で、海への憧れが強い男である。

 理事長の宮前も私も一級船舶免許を持って居るので、いずれ五仁會の船を持ち、洋上で船に乗り、ボランティア活動をしてみたいと云う夢もある。

 

 太陽の燦々と照る海辺で、若者の笑顔を見ながら「天下国家」と竹垣悟の「海上・福祉論」も述べてみたいのである。

 新免の事は余り「ヨイショ」すると本人が今後、その枠に填ってしんどいと思うので、これ位で終わる。

 

 宮本武蔵の話しも、原稿上ではまだまだ続くのだが、このままダラダラ続けても、吉川英治のように上手く書けないので、ひとまず擱筆する。

 

 スイム・スイム・スイム・・・で橋幸夫のリズミカルなメロディーを口ずさみながらグッド・バイ!

 ベリー・サンキュー!!           平成25年如月18日   竹垣 悟

五仁會理事・キック(ボクシング・ムエタイ)のマサこと新免正礼
五仁會理事・キック(ボクシング・ムエタイ)のマサこと新免正礼

五仁會理事長・宮前篤の紹介

 山一抗争で懲役18年を務めて、出所して3ヶ月で堅気になった男としてその世界では有名なのが、宮前篤である。

 もちろん宮前は私の弟子の一人であり、私が代表なら宮前は理事長として地道な努力をする人でもある。

 

 この宮前は天草四郎時貞の乱で有名な、九州は天草で生まれ育ちました。

 島の者は漁師が多く、宮前も例に漏れず十代は漁師をしたりして過ごして居り、素朴な田舎者だったそうです。

 

 ここで少し殺伐とした話しになりますが、宮前の過去の経歴を述べてみたいと思います。

 宮前は、竹中組若頭、後に後藤組副組長から、五代目山口組直参になった大西組で若頭をして居たのです。

 

 山一抗争当時は、竹中組に属し大西康雄が若頭をして居り、宮前も大西組の若頭をしていたので一和会殲滅に全精力を傾けたのは、いわば大西組の天命だと宮前は云うのです。

 山一抗争に極道生命を懸けるのは、若頭としての宮前や大西にとっては当然の義務だったのです。

 

 大西とは、抗争事件で私もパートナーを組んだ事があり、又喧嘩相手として同じ山口組同士でしたが火花を散らし、戦った事もあるのでお互いの性格はよく知って居るつもりです。(大西との喧嘩では岸本才三から古川に電話が入り「これ以上音を鳴らさないように」と古川から云われた事もあります)

 云わば、良きライバルでした。

 

 だから誰が何と云おうと、私は大西に堅気の世界でも窮鼠猫を噛むの心構えで頑張ってもらいたいと思ってます。

 一時は山健組若頭・渡辺芳則と、竹中組若頭・大西康雄として張り合った程の男なのです。

 (だから大西は尚更、山一抗争に極道としてのプライドを賭けたと思うのです)

 

 大西は加西市の出身なので、加西市を大西の縄張りとして完全に掌中に収める為、加西市に居た加茂田組舎弟・小野敏文に狙いを定め、宮前は若い者に射殺させたのでした。

 

 結果、宮前は教唆で逮捕され、長き裁判闘争の末、通算18年余りを獄中で過ごす事になったのです。

 

 そのあいだ、宮前に云わせれば「竹中正久四代目親分の冥福を祈り、山口組の発展と繁栄をひたすら念じて来た」との事です。

 「竹中組ではなく、山口組の抗争で、わしは懲役に行ったんや。文句あるんやったら、お前も行ってみい」と刑務所で出来の悪い山口組々員に云った事もあるそうです。

 

 取調べには全面否認を貫き、男の一分は決して捨てなかったそうです。

 

 宮前たちの事件(昭和61年1月21日)の後、一和会々長邸襲撃・警察官銃撃事件(昭和63年5月14日)が起こったので、その事件以降刑事には竹中組は同僚の仇とされ、竹中組に対するマークもより厳しくなったようです。

 

 宮前は、昔は泣く子も黙ると云われた大阪刑務所第3区を務めたあと、平成16年に満期出所したのです。

 

 宮前いわく、大西組の方針と宮前の極道としての方向性が違うので、出所して3ヶ月で大西と袂を分かち堅気になったとの事です。

 

 私は、もったいないと思いましたが、宮前の心の中に残る「サムライ魂」が男の決断を迫ったのでしょう・・・自分ながら「アホやなぁ」と思ったのも事実だと云って居ります。

 

 服役した時は若頭であり、全面否認で竹中組の伝統を守り、極道としての勲章を手に入れたと思ったのもつかの間、出所時はなぜか舎弟頭だったそうです。

 極道社会も四代目時代と違って金の世の中になっていたのと、何でも云いたい事を云う宮前を、大西が煙たがったのも理由の一つだと思います。

 

 拘置所で宮前が拘留中、大西に「黙って務めに行け」と云われて「プッツン」切れて「18年やど!ほな、お前が行かんかえ」と宮前が反論して、それで大西と口論になった事もあるそうです。

 

 私が、大西をロイヤルホストに呼び「何で宮前を若頭から下ろし、舎弟頭にしたんや」と聞くと、大西は「勲章を持った者(前田哲也)が帰って来たので、いつまでも席を空けとく訳には行かへんしな」と云って居りました。

 これは一理ある事だと私は思いましたが、口論を聞けばこれは詭弁だと分かります。

 

 それと宮前は、今だから分かる事がひとつあると云って居りました。

 それは、大西も竹中組を出て苦労したと云う事です。

 

 私が井奥文夫(元五代目山口組々長秘書) から聞いた話では、三代目山健組々長・桑田兼吉から盃なしの相談役、と云う話しもあったそうです。

 

 でも極道の筋道として、竹中組の若頭として、喧嘩相手の山健組には行けないと云うのが大西のプライドだったのではと思います。

 大西と反りが合わなかった宮前ですが、この話しをしてやると感動して居りました。

 

 私と宮前は、偶然にも平成16年の宮前が出所前、少しだけ同じ工場で務めたのです。

 そして運動時間になったら二人で話したものです。

 そこで宮前と私が共通して話したのが「四代目親分は立派な人やった」です。

 

 懲役18年を山口組の為だと思い秋霜烈日な日々、辛酸を舐め尽くして来た宮前です。

 その宮前が遅きに失したと云う、よもやまばなしをしてくれたのです。

 

 昔、一向宗が徳川家康に反旗を翻した後、寺社の僧侶が時の権力と共存したように宗教体制を整えた団体が出現するかも知れないと云うのです。

 

 これまで暴力団と云う人種を恐れていた人間が、世論をバックボーンにグループを結成し、グレーゾーンに生きようとする者も出て来ると早くから予言して居りました。

 

 私も宮前も、白か黒かの世界で生きて来た人間です。

 今こうして、白か黒かを求める生き方は、二人の共通理念なのです。

 

 刑務所の中でも宮前は、無事故で何年も過ごす真面目な男でした。

 黙々と仕事をする模範囚の一人でもあったのです。

 

 でも刑務所と云う所は、中で脱退届を出さない限りいくら真面目でも、仮釈放はなく満期なのです。

 

 私の持論は、刑務所で事故ばかり起こす奴は、こらえ性の無い、更生努力をしない奴だと思うのです。

 そんな奴が、刑務所から出ても、使いものにならないのは理にかなった話しなのです。

 

 煮え湯を飲んで、冷ましてから表へ出すのが男と云うものです。

 これを教えてくれたのが、初犯で同室だった伊丹の松野順一(三代目山口組直参)でした。

 「竹垣君、出来合いの喧嘩は誰でも出来る。そこをこらえて何かあった時やるんが男やで」と云われたのでした。

 

 話しは戻って宮前の話ですが、私が出所して直ぐ宮前に会った時「岡山の親分(竹中武)と会ったんか」と聞くと、その時すでに大西組を出て居たのに「大西が嫌うから会ってない」と云って居りました。

 

 次に会った時、また同じ様に「岡山に会ったんか」と聞くと「山口組に放免祝いをしてもらったので会ってない」と云うのです。

 大概の人間なら放免祝の金が欲しくて一度は訪ねて行くのにです。

 

 宮前は、その後岡山(竹中武)の墓に手を合わせに行った時「宮前、懲役18年御苦労さんやったなぁ」と云う声が線香の合間から時おり流れるようで、切なく辛くなったと云います。

 

 竹中武も山口組の為に、全精力を傾け戦った一方の雄でした。

 これも哀れな末路です。              平成25年如月2日     竹垣 悟

五仁會理事長・宮前篤
五仁會理事長・宮前篤

五仁會代表として

 日本の国から侠客魂と云いましょうか、陽明学で云う所の惻隠の情とでも申しましょうか、武士道精神が無くなれば、長屋が公営団地になり、やがてはマンションになったように「義理と人情」の世界が一層遠のくと思います。

 

 これは紙・風船の時代を通り越して、急激な時代の要求を満たす「ネット社会」の

浸透であり弊害で、グローバルな流れなのでしょうね・・・

 

 熱き心が薄れ 血の通う熱血漢が馬鹿を見る時代の到来は、何としても避けなければなりません。

 

 そこで石原慎太郎のスパルタ教育と云う本の出番なのです。

 旧太陽の党に期待するのは、なにもアメリカだけではありません。

 

 実は保守的な私も自民と組んで維新を更に前進させ、祖国ニッポンの為に大暴れしてほしいと願っているのです。

 石原裕次郎主演で、むかし日活映画でやってたのを子供心に覚えてます。

 

 そやけど何処かの教師みたいに行き過ぎたら、あきまへんで・・・

 むかし、坊主と教師が兼任出来た頃は、げんこつ和尚みたいな先生が居たもんや。

 そんな先生になら、どつかれても平気やったけど・・・

 愛のムチと云う言葉は一体どないなったんやろ・・・。

 

 話が逸れた。

 保守的な伝統の一隅を照らしているのは、何も自民党だけではありません。

 いや、それ以上に保守的なのはヤクザと役者、それに角力(すもう)の世界だと

云われます。

 

 それなら五仁會の士操である「暴力団」を更生させ「侠客」に生まれ変わらせるのが私達の使命であり、日本再生百年の計だと信じます。

 

 だから私は五仁會代表として、この啓蒙活動を尚推進させたいと思います。

 

 余談ですが、私も自由民政党と云う政治団体を何年か前に立ち上げ、暴力団問題を社会に訴えた事があります。

 五仁會の発会式が終わる迄は、そこら辺をタクシーの流しの運転手のように

走ったものです。

 

 その車が、この写真です。

(残念乍ら陸前の国・小沢一郎とその一味の様に公儀助成金は貰ってませんでした)

 ボランティア活動で、播州姫路藩議員にとの時代の声が(2年先にでも)挙がれば民政党は立ちまっせ。

 

 チンポはたっても家はたたへんど、と云われたけどわしは両方、おまけに話すけど墓まで2基たてたんだっせ。

 

 シィ~ッ 、これは内緒話でっせ。

 枯れた渋味の辰巳柳太郎を目指してまっさかいなぁ。  平成25年睦月 竹垣 悟

早速電話での小咄をひとつ・・・・・

 

 会長久し振りです。「チョット聞きたいんやけど、会長は確かわしが知っとう8年前までは車の免許証を持ってなかったんと違いますか・・・」と懐かしそうに話を切り出す彼。

 

 「そうや」と私。

 「そしたらなんでタクシーの運転手のように走ったもので・・・となりますねん」と彼が聞く。

 

 「そらぁお前、俺は堅気になった時、何かひとつでも極道時代に出来なんだ事をしようと思て車の免許を取ったんや。平成18年7月14日やったかな」 「それから又、別の教習所やけどオートバイの免許も取ったで。400ccやけどな」と続けて答えた。

 「ほんまでっか・・・」と話の引出しを開ける君。

 

 そして調子に乗って喋り出す私が目の前に居たのでした。

 死んだ母方の祖母に私が小僧の頃「お前はチョッピン(調子者・トッパ者)やから調子に乗ったらアカンで」と良く云われたものです。

 

 「それから小型船舶やけど同じ年に2級免許を取り、直ぐ1級免許を取ったんや」 「1級の時の海図の試験では、頭がパニくってしまいそうになったわ」

 それから「19年の5月31日に神戸の深江でジェットスキーの免許も取って、おまけに加古川のニッケ乗馬クラブで乗馬のライセンス迄取ったんやで~」

 

 「ほんまでっかいな!!」と云い、私が話す度に「ホ~ホ~」と云う彼。

 彼のホ~ホ~鳥が鳴きかけたら、誰でも話しが止まらんようになるのは知って居たのに・・・

 

 「それから姫路市の検定ガイドを3級やけど取り、えーっと、それから労務管理士の2級資格を取り、通信教育で1年かけ1級も取ったんや」 「そやけど、この資格は何か訳の分からん、バッヂを10,500円で買うて、資格ビジネスやったかも・・・」と答えた私。

 

 「それから・・・」

 「まだあるんでっか!!それやったら丸っきり免許オタクですやん。この続きは又聞きますわ。ほな失礼します」と電話が切れた。

 

 話しも、これでおしまい。        平成25年睦月    竹垣 悟        

五仁會設立までのプロローグ

 元やくざで、物書きの端くれの私が憚りながら、後の世に何を残せるか

自分自身に問うてみた。

・・・しかし安藤昇と違って私には良い答えは得られなかった。

 

 処がドッコイ、その時歴史は動いた。

 応接間に飾ってある大前田栄五郎(エッヘン・・・天下の上州・大前田一家

小田建夫総長が野に下って無聊に過ごす頃、賜った由緒ある肖像画)を見ると

五仁を為すべしと云っている様に聞こえた。

 

 そこで此の度、特定非営利活動法人・五仁會を設立する事に相成り申し候。

 五仁(ごじん)とは、仁愛・仁義・仁情・仁誠・仁徳の五つの仁(おもいやり)を持った侠(おとこ)達のスピリッツです。

 

 弱気を助け、強気を挫くとは、日本古来のおとこ道にて候。

 いま流行の、世の為 人の為にと云いたいが・・・

 

 時代の節目に、それこそ尾崎士郎みたいに、侠客ブームを煽りながら

「人生劇場いざ序章」と洒落たいねぇ。

 

 むかし、忠臣蔵の浪士を後方支援した、天野屋利兵衛は男でござると

云ったとか・・・後援会も、ここまで来れば伝説でっせ。

 

 五仁會も後援会を募集で御座候。

 

 しかしでござる。

 遣った金を惜しがる奴。

 人に恩を着せる奴、それと嘘をつくいやな奴。

 

 それから、それからでござる。

 心の澱(おり)の中にさえも男の一分が残ってない奴。

 これらの人は、一切お断り申し候。

 

 女侠と女傑は大歓迎。

 ホステスもオカマも姉御肌でおとこ気がある奴大歓迎。

 

 もちろんレディース アンド ジェントルマン、サラリーマンもウェルカム!!

 OK You this is 待ってまっせ・・・

 

 これでどうでっしゃろ。

 最後に一言・恩は着る物で、私は恩義を大切にします。平成25年睦月 竹垣 悟                                   

                              

五仁會発会式へのプロセス

 私の実兄が昨秋、天皇陛下主催の園遊会に出席の栄を賜って以来・・・田中河内介一門の末席ながら、私も一月二〇日、兵庫県庁舎にて、特定非営利活動法人の認証を県知事から受けました。

 

 ここに宿願の、犯罪者更正支援・五仁會の誕生を見た訳です。

 

 過去に暴力団組長として悪名を晒した私に、この様な名誉ある団体が認証された

事は一家一門、望外の喜びであります。

 

 それだけ、今の日本国政府が反社会的主義に憂うつを感じ、鬼平こと長谷川平蔵と、その一味のような人間味溢れる集団を育成して行こうとの現れとも云えます。

 

 発会式は、来る平成二十四年五月五日午後七時から

会場は、ホテル日航姫路・大広間を用意して居ります。

 

 私共の五仁會から、赤穂浪士や幕末新撰組のような時代の寵児が誕生し

後世に光明を放つ集団へと、うねりを上げて行く事を切望する次第で有ります。

 

 これは近年にない侠(おとこ)のドラマの序章であり、日本人の魂が

昭和の古き良き時代へ回帰する出発点になると信じて止みません。

 

 正式な案内状は、追って発送致します。

 右、報告にて人生劇場華甲(私は三月二十一日に還暦を迎えます)篇の

幕開けとさせて頂きます。        平成24年如月     竹垣 悟

昭和16年発行・豊田小八郎著 田中河内介自伝
昭和16年発行・豊田小八郎著 田中河内介自伝

五仁會スタート

私がNPO法人を立ち上げた事によって、暴力団社会の人間が、

「わしらでも更生すれば、社会の一員として受け入れてくれる」

と、自信を持った人も多いと聞きます。

 

実際暴力団組織のカリスマが、「我々は暴力団ではない、侠客である」と言っていますし、最高幹部の一人は法廷で検察官から暴力団と呼称された時、「我々はやくざだ」と反論し訂正を求めています。

 

本家本元が暴力団を否定する時代なのです。

ですから、我々も時代の声に追従して暴力団を更生させ、社会に有益な人間(それを昔は侠客と呼びました)を育成して行かなければなりません。

 

かたぎ相手に何もないのに、暴力団という大きな傘をすぐ広げる人間を今の社会は必要悪とは言わないからです。

 

つまらん人生を送ってきた私ですが、今夜あの世に行って私のために命を賭けてくれた者に会っても、恥じることがない人生で終わりたいと想っております。(悲しいかな、この言葉を私以外、一体何人の人が言えるでしょうか……)

 

 …竹中正久の分骨が入っている五輪塔の横に、私が範を置き敬慕する高祖父

田中河内介と私の母、それに私に連なる一族門葉が入る墓も建てました。

 

 今、こういうかたちで残暑見舞いが出せることに、知命を感じながら… 合掌 

                        平成23年晩夏    竹垣 悟                         

五仁會・同志の人として 

 五仁會の「顧問」として作家でタレントの坂本敏夫を迎えました。

 

 坂本は元刑務官として少し変わった経歴を持ち、父親が「大阪拘置所」の管理部長をして居た時死んだので、当時「法政大学」の学生だったが学業を半ばに中退して、「父親の跡」を継ぎ刑務官になったそうである。

 

 本人に云わせると、家に金も無く「学業」を続けられないので「喰わんが為」に仕方なく父親の跡を継いで「刑務官」になったと云って居ります。

 

 刑務官時代の坂本は「ノンキャリア組」では「エリートコース」を進み将来を嘱望された男だったのです。

 でも任期を残して辞めて「作家」の道に入ったそうです。

 

 これが坂本の長年の夢だったから、その夢を実現した時点で、次はタレントとして誰にでも知られる存在になる事だそうです。

 そう云う面では今まさに、夢の途中かも知れません。

 

 そして現在は「竹垣悟」と云う五仁會代表を得て、代表と共に人生の「到達点」を目指して頑張って居るのです。

 私と坂本は、五仁會と云う船に乗り込み、人の心の「一隅を照らす」灯台のようになって行かなければならないのです。

 

 その坂本に、私から三顧の礼を尽くして書簡を送ってみたいと思います・・・

 この書簡は、ホームページ・第一ページに記載する記念章として、坂本敏夫に宛てました。 

 

 拝啓

 街中ではジングルベルの鐘が鳴り、クリスマスも間近になりました。 

 坂本敏夫先生、こんにちわ。

 師走に入り、何となく慌ただしい毎日が続きますね。

 その後、つつが無く元気にお過ごしの事と思います。

 

 私は相変わらず、五仁會に息を吹き掛け、私の魂を「白い吐く息」に宿して頑張っておりますので、他事ながら御休心下さい。

 

 先生「組織」とは、人の「命の鼓動」が聞こえたら良い動きをすると云いますからね。

 

 私は先生を知り、人との縁の大切さを更に強く思う様になりました。

 私と先生が同じ方向へ進み、暴力団員と犯罪者を更生させれば、日本の国はこれから景気も良くなり、国家も活気付き、更に上向きの社会になると信じます。

 

 これからの人生は人との縁を大切にし、正義感を持った国民として世の為に役立つ人間になりたいと思います。

 

 その私の人生を送る上での「信条」は「信義を守る事」です。

 私は、先生を「五仁會」の「相棒」として「虚心坦懐」に、これからの人生を送りたいと思います。

 

 そして男として、誰にも恥じる心が無い人生で、終われると信念を持って生きて居ります。

 お互いが無理の無い付き合いをする為には「正直」に何でも話し、付き合って行かなければなりません。

 

 そしてお互いの心を労わりながら、これからの人生を歩んで行きたいものです。

 こんな私ですが、これを機会に「五仁會」共々宜しく「ご指導」「ご鞭撻」の程を、お願い申し上げる次第であります。

 

 簡単・略意では有りますが、これを私が先生を五仁會に迎える心づもりの言葉とさせて頂きます。        敬具    壬辰 師走20日記  竹垣 悟 拝 

姫路護国神社で国家安泰を祈願する代表
姫路護国神社で国家安泰を祈願する代表