中野会の事を書いてここまで来たら、私が竹中組を出た時の事を書かない訳には行くまい。
私が竹中組を出たのは、平成元年の8月・盆を過ぎて9月の声が間近に聞こえる頃だった。
私と中野太郎との縁を取り持ってくれたのが、兵庫県警の警察署長にまでなった暴対課では伝説の人物で、とっくの昔に定年退職したが今も健在だ。
そのむかし週刊現代の記者・今西武史を伴った溝口敦にも紹介した。
この人こそ豪快を絵に描いた様な警察官で、私と付き合って居る時「内緒やで」とは一回も云った事がない人だった。
中野太郎がこの人と逢う時は私が当番の時で、1階の事務所には私しかおらず、私以外の者は2階へ上がり、事務所へ下りて来るのを厳禁して居た。
私は中野太郎とは初犯の時に同じ工場になった事がある。
配役になって直ぐ、中野太郎は病舎へ入病したので、ほんの少しの間だけだったが・・・
今考えると、これが私と中野太郎の縁の始まりだったのかも知れない。
ついでながら云うと、竹中正久と中野太郎は新入考査で一緒だったのである。
この頃のエピソードは書き出したらキリがないので、いずれかの機会に譲りたいと思う・・・
話しを戻す。
竹中組最後の幹部会を、若頭だった大西康雄の事務所でした時、これから竹中組が一丸となって山口組と対抗しようと話し合った。
総本部長をして居た笹部静男が「各組から何人か若い衆を出して、俺に10人でも持たせてくれるんやったら戦闘部隊を指揮する」と云うので、私がすかさず「それやったら俺がするがな」と云ったのである。
私所には、この時すでに30人近くの若い者が居たからだ。
すると笹部は素直に「ほな俺は総指揮に回るわ」と云ったのである。
そんな話しをして居るタイミングを見計らった様に「笹部組の事務所が弾(はじ)かれた」と幹部会の最中、一報が入ったのだ。
そうする内に、我々が幹部会をして居た「大西組の事務所」にも銃弾が撃ち込まれた。
その直後、大西康雄が「今から飲みに行こう」と云って、何人かで繁華街(魚町)へ繰り出したのだ。
私はこの大西の言葉を聞いて「流石、天下の竹中組の若頭や。こんな時、豪気に飲み屋へ行くとは・・・と思った反面、これで竹中組も終わった」と思ったものだ。
そんな解釈をしたので、当然私は飲み屋に行く気にはなれず遠慮したが・・・
この時の幹部会の様子は逐一「山口組」に伝わって居た様で、そのうち「竹中組」から「山口組」に戻る人間がポツポツと出て来た。
だから竹中組としての幹部会は、これが最後になった。
私は竹中組を出ると決めた時、先ず坂本義一に相談した。
すると坂本は「悟よ。お前はまだ若いから、どこでも好きな所(組)へ行け」「オラァこの歳やし、今更よそへ行く気もない。竹中組で終わりや」と云ったのである。
私は竹中武から竹菱の代紋・幹部用のプラチナ鎖り付きバッジ1個と、枝の者用の金メッキのバッジ100個を貰って居たので、それらの裏に義竜会と彫ってしまって居た。
だから、その代紋代として「100万円」を添え、竹中武と兄弟分だった牛尾洋二に持って行ったのだ。
牛尾は「竹垣、自分は坂本の出やから、これは坂本に渡して、断りを云うのが筋やで」と云ったが、私は「叔父貴(牛尾)にしか、頼めまへんねん。宜しゅうお願い致します」と頭を下げたのだ。
その頃の牛尾は湊組の舎弟時代、竹中正久が惚れて実弟の竹中武と兄弟分にさせた様な男だったので、貫禄も器量もあった。
だから私は牛尾洋二に云ったのだ。
私は「竹中武が私の出した100万円を受け取ったら、私が竹中組を出る事をOKした」と取ることにした。
案の定100万円の事は牛尾から何も云って来ず、竹中武は受け取ったのだ。
私は中野太郎と盃が終わった帰り道に、御着の竹中正久の位牌が置いてある本家(姉の家)に寄って、30万円の線香代を置いて帰った。
これは、私の若い者が私の姿を見て、後々義竜会々員として誇りを持つヤクザとしての大義の第一条件だと思ったからだ。
私の若い者の手前にした、パフォーマンスだと云ってしまえばそれまでだが、30万円もの金を自己満足の為に置いて来たのである。
この頃の話になると、次から次へと色んな情景が想い浮かんで来るので、ひとまずこの話しはこれで擱く。
いずれ、どこかでこの話しの続きを書いてみたいと思うが・・・
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克樹 (水曜日, 05 6月 2013 20:48)
竹垣様
私は竹中正久ファンで憧れている男です。毎回貴重なお話が聴けて楽しみにブログの更新をみています。私はサラリーマンですが、男としてどうなのか自分に自問自答できる竹垣さんのお話が僕のような半端者には響きます。勉強させて頂きありがとうございます。