「悲しきヒットマン」が徳間書店より発行されたのが1988年。
書いたのは山口組顧問弁護士だった山之内幸夫だ。
映画では三浦友和が主演して、1989年9月9日に東映系劇場で一般公開された。
この頃は時代も昭和から平成へと移り、あらゆる面で価値観が沸騰し、バブルと云われた時代がシャボン玉の様に弾ける手前だったのだ。
全てに於いて慌ただしい時代の転換期だったのである。
この時代にヤクザだった私達が何をして来たかと云うと「マネーゲームに踊り」仁侠道と云うヤクザとしての「本分」を忘れ、享楽的人生をひたすら追い求めて居たのである。
その為には対立する相手組織を殲滅しなければならない。
結局、被害者となったのは「悲しきヒットマン」と云われたおとこ達である。
私には語る資格はないが、財津晴敏が昨日(6月6日)逮捕されたと報道されてから色んな人から電話があった。
電話では財津逮捕に関する私のコメントは差し控えたが、それは男として当然のことだろう。
本人が16年間、逃亡の果てに逮捕されたのだ。
時代の流れの中で財津は何を想い、何を考えて今日まで苦しい逃亡生活を送って来たのか・・・
宅見勝若頭射殺事件の主犯のひとり、鳥屋原清輝が死んだ時、むかし私の若い者だった二人が遺体を引き取りに警察の死体安置所まで行ったと云う。
私の若い者(安井学)の嫁と、鳥屋原の嫁が姉妹だったからだ。
その男は、山波戦争と呼ばれた波谷組との抗争で懲役7年を宣告され、服役後確か1年余り経って真犯人として宅見組系の若い者が逮捕されたのだ。
現場に残って居た弾痕と覚醒剤で捕まった際、一緒に押収された拳銃の弾痕が一致したからである。
世の中は不思議な事があるものだ。
結局うちの組の者は、服役して居た刑務所から出所して私の所に謝りに来た。
私は何と言葉を掛けたら良いやら分からず、器量の無い応対をした。
腹を括(くく)って私の為に懲役7年を務めるべく頑張ってくれたおとこ心に、上手く応えられなかったのだ。
その時中野太郎は、私には何も云わなかった。
宅見勝と喧嘩してまで、私所の若い者を庇ったのだ。
そしてあと一人が中野会で部屋住みをして居て、年季が明けたのに当時の事務局長(高口節生)に気に入られて、まだ残れと云われ指を詰めて部屋住みを上がった男だ。
この男(田村元)は年季明けと共に結婚式を挙げる事になって居て、式場の予約までして居たのだ。
人の縁と云うものは不思議なものだ。
あまり偶然が重なり合うと、嘘の様に見えて来る。
この様な場合、田岡一雄は「事実をいくら事実どおりに描いても、綺麗すぎると信じがたくなるかも知れんなぁ」と云って居る。
そして「ヤクザがきれいに人間的に描いてあると、あれは作り話やと思われるやろなぁ」と、自分の映画(山口組三代目)に対しての感想を娘の由伎さんに述べて居るのだ。(お父さんの石けん箱・角川文庫刊・田岡由伎著より)
この事をことわざでは「人が聞いて嘘だと思う様な真実は語るな」と云って居る。
私も全く同感なのだ。
だから私は本当の事でも人が聞いて「嘘やろ!」と云う事は書かない様にして居る。
私は嘘がつけない人間である。
「自分を曲げて」と云うのが出来ない質(たち)なのだ。
私は財津とは個人的に飲みに行った事もなく親しくはなかったが、良い男だったと云う印象がすごく残って居る。
平成最後の極道らしい極道、と云うのが財津晴敏だったと云っても過言ではあるまい。
若し、あの世で縁があるなら逢ってみたい男である。
財津のこれから先の茨(いばら)の道を思う時、私は男として無性に淋しくなる・・・
私の様な者が今、温(ぬく)もりの中で生きて居るのは、良い人間関係の中で生きて来たからであろう・・・
私は嫌(いや)な奴とは、調子を合わさない事にしている。
本能的に虫が好かない奴とは、再び生まれ変わっても同じ天を仰がないと云う主義なのだ。
これは私が実践して来た人との縁に於いて、ものすごく役立って居る。
「人生は邂逅(かいこう)に尽きる」とは、けだし名言である。
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次郎 (土曜日, 08 6月 2013 21:15)
竹垣様 始めまして 次郎です。
いつも ブログを 興味深く 拝読させて頂いています。
さて 最近は 極道と 言われる世界も 様変わりせざる負えない 御時世になってきてる様に 思います。
私の周りにも 極道は いますが 近年 不良は みんないなくなりました。
残っている人達は 皆 真面目で 今の一瞬を 賢明に誠実に 生きようと している
様に感じます。 私には 分からないだけかも 知れませんか、、、
しかしながら これからは 堅気も極道の方達も
足るを知る 時代に 入るべきだと 思います。
竹垣様の これからを 影ながら 応援しています。