姫路のヤクザ大同団結・姫路睦会設立までの経緯

 平成17年に山口組内から破門状が出され、その時から私は堅気になって居るのだが、過去私が暴力団組長として姫路の街に君臨して居た若かりし頃の回顧録を綴ってみたいと思う。

 

 私が暴力団・義竜会(本部・姫路市塩町)会長として、どっしりと姫路の繁華街へ腰を下ろして「姫路のヤクザ界」の「頂点」に「君臨」するべき「野望」の「第一歩」を踏み出した頃の動きをここで振り返る事にしよう・・・

 

 姫路の魚町に「日本船舶振興会」の「場外舟券売り場」が出来る頃、確か平成3年1月に完成したと思うのだが・・・

 

 この舟券売り場が出来ると「ノミ屋」として各組が入ってトラブルを起こす可能性があると考え、私は姫路市内に事務所を構えて居る山口組系の組織を一本化する為に「意を決して」動き、各組の組長に逢い「姫路のヤクザを大同団結」させようと説得に回った。

 

 この大同団結の「大義」は、仮にノミ行為をするのでも、舟券1枚100円の所、1割引きの90円より安く受けないと云う決まりを徹底する為である。

 当時私は「ノミ行為」が資金源のひとつになって居たので、そう考えたのである。

 

 私の熱心な提案に、山口組本家の舎弟だった神田幸松組長を筆頭に、当時は後藤組副組長だった大西康雄、西脇組副組長・笹部静男、大石組舎弟頭・牧敏夫、中塚義美、山健組若頭補佐・小山顕治、疋田春夫、池田修、柴田会副会長・大角昇、宅見組舎弟姫路支部長・堀尾信夫、外姫路のヤクザを大同団結させ「姫路睦会」を発足させたのだ。

  

 この「姫路睦会」は月一回各組長が顔を合わせ、忌憚なき言葉で姫路市の繁華街でのトラブルを無くし、繁華街へ出て来る客が安心して遊べる街作りをして行こうと「体裁の良い」話し合いの場を持ったのである。

 

 当時はバブル景気の余韻がまだ世の中に残って居た頃で、どの組でも繁華街のどこかの店の「守り」をして居たから、それらの店側からの要望を各組の代表達が述べて居たのだが・・・

 

 この「姫路睦会」は、私がひとりで奔走(ほんそう)して結成に漕ぎ着けたと云う事もあり、私が世話人代表の幹事に就任して色んな議題を提案したりして平たく云えば取り仕切って居た。

 39か40歳の若造が「姫路のヤクザ」を取りまとめ、幹事に収まって居たから当然私が煙たい者も居た筈だ。

 

 ・・・私は傷害事件を起こし、平成4年に神戸刑務所に服役する事になった。

 

 この懲役を終え、平成5年に私が帰って来た時には大西康雄も山口組本家の直参になって居たので「私の放免祝いが姫路睦会として最後の行事になる」とその時私に云うのである。

 

 大西康雄に理由を聞くと、神田幸松と二人山口組本家に呼ばれ、当時山口組若頭だった宅見勝に「播州ブロック」があるので「姫路睦会」を解散するように指示されたと、私にすまなさそうに云ったのである。

 だから発起人の私の出所を待って、私の放免祝いを最後に結局「姫路睦会」は解散してしまった。

 

 折角、姫路のヤクザを一本化したのに私としてはしんどい話しを出所早々聞かされたのだった。

 

 私がこの「姫路睦会」を結成したのは三代目山口組時代「竹中正久」が音頭を取り播州一円の山口組系組織を集め「播州会」を作って居たから、その故事に習って私も姫路のヤクザが一本化する事は良い事だと思い大同団結させたのだ。

 

 私はどんな組織でも、組織を立ち上げるのは先天的に上手いのだが、これからの課題はその作り上げた組織をより発展させ、その中からひとりでも多くのスターを作り出し、世に出して行く事だと思う。

 

 世の中に何かを訴える場合「無名の戦士」より「天下に名を知られた人物」の声の方がより多くの支持者を集める事につながるからである。

 

 私は今、暴力団を弱きを助け・強きを挫く「侠客」として世の中に存在させたいと思って居る。 

 そして犯罪者を世の中から少しでも減らし、社会の浄化を進めて行きたいと念じて居る。

 

 私が敬愛する日本拳法五段で吉本歯科医院の院長である吉本正直(五仁會の発会式にも出席賜わった)から拝借した童門冬二著の「人生 義理と人情に勝るものはなし」を読み、人としての味わい深さを痛感した。

 

 この本の中にルーマニアの作家コンスタンチン・ゲオルギュの「たとえ世界の終末が明日であろうとも、私はリンゴの木を植える」と云う言葉に、私の思想の原点を見るような思いがしたからである。

 

 私の「夢」への実現は「金」も掛かるが「志し」も要るのである。

 今まで何回ともなく云って来たが、私は植毛手術を受けた。

 その外面的な若返り行為だけを見ないで、ずっと先にある私の志(こころざし)を見てくれと、人に云って来た。

 

 先祖から授かり親から貰った大事な体を、自分の理想を実現させる為に私なりに労わって居るつもりだが、この命を捨てなければならない時は「身を捨てて仁を為す」覚悟で居る。

 

 「人間万事塞翁が馬」とは中国の故事だが、人の一生に就いてよく云い表わした言葉である。

 


 余談だが、私個人の考えを云うと、山口組若頭・宅見勝が「姫路睦会」を解散するように神田幸松や大西康雄に指示したのは、当時私は中野会幹部であり、波谷組と弘道会の抗争事件では私所の義竜会も参戦して、宅見組の手柄を横取りしたような格好になり、私の若い者が殺人未遂事件で7年の判決を受け服役していたのだが、(結局真犯人は宅見組の者で)それが原因で、宅見勝と中野太郎との間に行き違いがあり、二人は上手く行って居なかったのである。

 それで私が幹事を務める「姫路睦会」のような親睦団体は解散させた方が良いとの結論に達し、私が懲役に行って居る間に神田幸松と大西康雄を本家に呼び二人の意見を聞いた上で、解散を指示したように私は思うのだ。

 それぐらい中野太郎と竹垣悟に宅見勝は良い印象を持って無かったし、あとひとつあるとすれば大西康雄が山口組の直参になったので大西の直参としてのプライドが枝の者である私が取り仕切る「姫路睦会」には、出席したくなかったと云うのが真相であると私は今でも思っている。

 それとこれは余談だが、竹中組が山口組を出た時、一番に宅見組若頭補佐の安田雅弘が若い者を引き連れ私の事務所へ来て「姫路の極道の性根を見に来た」と云って来て結局私を認めて帰った事もあり、その後宅見組の舎弟二人が私の事務所にきて横着な態度を取るので私がその場で、踏んだり蹴ったりした事もあるので宅見勝は尚更私には良い印象を持っていなかったと云うのが真相だろう・・・


 それぐらい私は現役時代イケイケのトッパ者だったので姫路のヤクザ者には嫌われて居たし、また煙たがられていたのだ。

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コメント: 4
  • #1

    愛媛県 黒田 (火曜日, 13 8月 2013 17:10)

    いつも楽しみに拝読させて頂いて居ります。
    『身を捨てて仁を為す』なかなか云える事では無いと思います。
    普通の人では出来ない事を思い考え実行に移す。 竹垣会長の侠客としての義侠心 いつも感服する限りで有ります。
    私も人として男として竹垣会長を日々見習いたいと思って居ります。
    まだまだ暑い日が続きますが暮れぐれもお身体にはお気を付け下さい。

  • #2

    竹垣 悟 (火曜日, 13 8月 2013 20:11)

    愛媛県 黒田様 
    折角ですが私は堅気です。
    こうやって啓蒙活動をするだけで今は精一杯です。
    侠客なんて恥ずかしくて恐れ多いです。
    恐縮して、心が縮(ちぢ)むばかりです。

  • #3

    伊丹 大西 (水曜日, 14 8月 2013 00:38)

    竹垣 様
    私事ですが布施の古賀・ヤクザ専門弁護士・数字のつくコンビニにオーナーに詐欺られ、私個人で返しを決断し実行に移そうと言う時に私の亡くなった恩人がいった言葉です。
    「最初から出来ないと諦めるより、出来ると信じて頑張った方が自分の未来につながる。だから信じ続けろ」と諭されました。
    今、この言葉を五仁會の発展の為、会長の夢また私の夢である為に続けます。
    個人事を入れてしまい申し訳ありません。

  • #4

    竹垣 悟 (水曜日, 14 8月 2013 08:44)

    伊丹 大西様
    私もそう思います。
    だから私は有史以来今まで誰も遣って来なかった、堅気が暴力団を更生させ日本人皆んなが憧れる侠客に生まれ変わらせたいのです。
    暴力団が侠客になれば犯罪の数も減るし、社会が安全で安心な街に変貌して行きます。
    そして親兄弟や親戚の者それに、嫁や子供も肩身の狭い思いをしなくて済みます。
    我々五仁會グループが頑張って、このまま少しずつでも世直しを進めて行ければ私の本望とする所です。
    大西さん、黒田さん、男が一旦決めた事です。
    トコトン遣り抜きましょう。
    同志として、お二方には期待しております。
    私は今日、新宿駆け込み寺のイベントに出席して来ます。