いきなり生臭い話しだが・・・
三代目山健組若頭補佐・二代目村正会々長 小山健治(現・三代目村正会最高顧問)が恐喝の疑いで加古川署に逮捕されたと10月23日付の神戸新聞・姫路版に出て居た。
私と小山健治は因縁があり、私が姫路の繁華街のド真ん中にある「塩町」で組事務所を出して居た頃、この小山に「地上げ」された事がある。
平成10年頃の話しだ。
私は競馬法違反で逮捕され「執行停止中」だったのだが、その執行停止中を見計らって、私が借りて居たビルを「ジャパンシステム」と云う小山のフロント企業に地上げされたのだ。
そして私が収監されると同時に「建物明渡請求事件」を裁判所に提訴された。
事務所は私名義で、住まいは嫁の名義で賃貸契約をして、4階のワンルーム4部屋を全面改築して住居にして居た。
この時、あろう事か嫁への訴状を見ると「竹垣絹代は暴力団義竜会々長 竹垣悟の妻なので出て行け」と書いてある。
私は執行停止が終わり豊岡拘置所に出頭したので、数日経って神戸刑務所に移監される筈だったが、別件の傷害事件でそのまま姫路警察署に引き戻された・・・
その時訴状が手許に届いたのだ。
私は頭に来たが、これから一年の懲役を務めなければならないので自分を抑えた。
そして傷害事件が罰金刑で済み、姫路拘置所から京都刑務所へ移監になって直ぐ「実例借地借家法」とか、山口・副島共著の「裁判の秘密」とかの本を猛烈に読み勉強した。
流石(さすが)の私も刑務所の中なので「通常」の懲役の何倍もの精神的苦労をしたが、そのお陰で信念と云う一念の大切さを知る事が出来た。
私は弁護士を入れず「一審」は全て自分ひとりで戦った・・・
前家主も私の味方として証言台に立ってくれたので、一審は五分の戦いで終わった。
そして控訴審で満を持して、弁護士を入れて勝った。
結果、出て行かなくても良かったのだが、家賃が高かった。
組事務所の家賃も皆、私が自腹で払って居たので参ったが「痩せ我慢」を通した。
私が堅気になってから再度「明渡請求裁判」を提訴されたが、二回目の時は相手が「金を払う」と云って来たので意地を捨て、和解に応じて金を貰って出た。
その金を元手に今の家を買ったので私の場合、終わり良ければ全て良しと云うところだ。
小山健治に対しては色々あるが私はいずれ、小山に「こんな良い男をなんで敵に回したのだろう・・・」と云わせてみたいと思って居る。
その為に私は、小山健治が「堅気」になりたいと云うなら「力」になりたいと考えて居るのだ。
小山も堅気になれば、誰かが追い込みに来ると思い込んで居るのではないかと思う・・・
何にしても、70歳にもなって暴力団員もないだろうと同情する。
・・・「別件」の傷害事件と云うのが、大石組内牧組の青木と云う男を私が殴った事件である。
韓国クラブで鳩友だった「井上和佳」や「吉原謙以知」と飲んで居る所へ(この男の)娘が、私の娘にガタガタに殴られたと云って来たのだ。
この男とは十代の頃「ヤマト」と云うキャバレーで一緒にボーイをした仲なので、(と云っても私は同じボーイを殴り開店前日にクビになったが・・・)もちろん当時は良く知っていた。
私は思い込みが激しく酒を飲んでいた事もあり、この時てっきり青木が殴り込みに来たと勘違いした。
・・・そこで青木の顔を見るなり、ガラスの大きな灰皿を振り上げ、この男の頭を思いっきり殴った。
当時の私は東映映画の若山富三郎演じる暴力団組長を絵に描いたような男で、腕と度胸に自信がある分、相手が「同業者」なら誰でも喧嘩を買って居た。
そう云えば山口組の「直参」になって居た大西康雄とも喧嘩をした事がある。
私は相手が山口組の直参で、若い者を十数名連れてクラブで飲んで居る所でも売られた喧嘩は買って居た。
・・・良い格好を云うようだが、十数名ぐらいの若い者が束になって掛かって来ても、私は一歩も引かないぐらい度胸の据わった男だ。
その時の喧嘩の理由と云うのが、大西康雄に名前を呼び捨てにされたから、私は頭に来て「なんや大西!なめとったら殺(いわ)してまうぞ」と云ったのだが、その言葉を合図に相手の大西組の若い者が立ち上がって騒ぎ出した。
私は大西の居る方向へ行こうと体を前へ進めたのだが、大西はそんな私を警戒し右往左往して居た。
そこを、私の「兄弟分」だった大西康雄の嫁の実兄で「大西組相談役」をして居た「前田寿一(としかず)」が、立ち上がって意気がる「若い者」を殴って止めてくれたのだが・・・
大西組の「事始め」の前日で、各支部から私の顔を知らない若い者も集まって居たので、結局私も相手のチンピラが振り上げた灰皿の先が少しだけ掠(かす)り「額」を切った。
私の若い者・岡田健次が駆け付け「私を制止」して無理やりエレベーターに押し込もうとしたまさに、その時だった。
私はこの岡田健次を肘(ひじ)で殴ったり、膝(ひざ)で蹴ったりして腕を振り払おうとしたが、国士舘大学柔道部出身で四段の猛者だったので、そのまま店外へ押し出された。
そのあと大西組を襲撃したのは云うまでもない。
私は額(ひたい)にひとつでも傷を付けられたら、死ぬ迄そのやられた事は忘れない性質(たち)だ。
襲撃事件の詳細は省くが大西康雄と私とは、同じチームで戦闘部隊を編成した事もある仲なので、私の行き腰は誰よりも大西が良く知って居るのだ。
この事件を大西は当時、山口組の総本部長だった岸本才三に相談したらしく、岸本才三から古川真澄に電話があり「大西は襲撃事件の痕跡は全部消して処分したから、ここらで手打ちをしてくれ」と云って来たそうだ。
その時側に居た古川の側近が、叔父貴(私の事である)親分(古川真澄)が岸本総本部長に「竹垣は暴れもんで、どないも手が付けられん男やからな」と大きく笑いながら電話を聞いて居たとあとで教えてくれた。
初代古川組では有名な話しだ。
こんな私のようなトッパ者を、古川真澄や竹中正久は好んだのだ。
・・・私は煮え湯を飲めるだけの器量はあるので滅多な事で爆発しないが、それでも止むに止まれぬ時がある。
今まで色んな人間と喧嘩をして来たが、後は程良い距離の中でお互い認め合って居る場合が多い。
大西康雄もその中のひとりだろう・・・
余談だが・・・私が出所して「明渡請求事件」の裁判に出廷した時、相手方のジャパンシステム代表・岡本治夫が「わしもこんな裁判出たいないんや。会長同士(小山と私)が話しをしてくれたら一番ええんや」と云うので、小山健治を詰めた事がある。
そしたら小山は「わしは会長(私の事)を尊敬してまんのに、なんでわしがそんな事(地上げ)をしまんねん」と云った。
この時は流石の私も参った。
・・・今となっては、この時の小山の言葉を信じたいと思う。
70歳になっての、しかも初めての刑務所は小山にとってはものすごく辛いものになるだろう・・・
組への脱退届でも書いて、起訴猶予で帰って来る事を願うばかりである。
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