兄弟仁義 男の絆・京都編

写真前列右から山下重夫、中央・山下大介、左端が道原利光 上段右端が竹垣悟で左端が加藤眞介である。
写真前列右から山下重夫、中央・山下大介、左端が道原利光 上段右端が竹垣悟で左端が加藤眞介である。

 私の兄弟分に六代目会津小鉄会の本部長をしている三代目寺村組々長・道原利光が居る。

 

 この道原がまだ二代目寺村組で舎弟頭をしていた頃、五代目山口組内中野会・若頭の山下重夫と五分の兄弟盃をした事がある。

 

 取持人は山下大介で、中野会・寺村組双方の幹部が立会人として出席した。

 

 それから暫くして、道原利光が寺村組の三代目を襲名した。

 

 ・・・更に歳月が流れて話しは変わる。

 昭和50年代に、二代目寺村組の本部長をしていた福田隆雄を私の舎弟に迎え入れる為に、道原利光と祇園で食事をした。

 

 そこでお互い意気投合して兄弟分になった。

 

 福田隆雄は二代目寺村組の時、若頭をしていた岩丸幸生と仲が悪く、抗争事件を起こした。

 俗に云う内部抗争である。

 

 結果、会津小鉄の総裁・図越利一の娘婿・廣山長治を福田隆雄が拳銃(チャカ)で弾いて、寺村組を破門になった。

 

 この時の事件で、殺人未遂と銃刀法違反に問われ、5年の懲役に落ちた。

 そして京都から神戸刑務所に収監された。

 

 その時私と工場が一緒になり、付き合い始めた男である。

 

 この福田隆雄が5年の懲役を終え神戸刑務所を出所した処、門の前に会津小鉄の若い者が車2台で迎えに来たそうだ。

 

 もちろんケジメを取るためだ。

 

 そこで福田隆雄はジタバタせず腹を括った。

 迎えに来ていた組員に「タオル一本貸せ」と云い、自分で目隠しをして「どうにでも好きなようにさらせ」と云って、俎板の鯉になったのだ。

 

  福田の豪快さを語るエピソードだが、その時 指2本を落とし「1本は兄貴分の丸岡鉄太郎に、あと1本は俺が弾いた廣山長治に持って行ってくれ」と云って、落とした指を、会津小鉄の若い者に渡したのである。

 

 ・・・時は流れて数年経って、福田は私の舎弟になった。

 そして相談役として義竜会の発展に尽力してくれた。

 

 福田は姫路へ来たらホテル・オクウチを定宿にしていたのだが、酒を飲んで不覚になったのか、何年かして女の前でロシアンルーレットをした。

 

 結果、運悪く何回目かで手にしていた38口径リボルバーS&Wがヒットして、福田隆雄の脳天をぶち抜いた。

 

 その場に一緒にいた女から、当時総本部長をしていた前田政行に連絡があり、私と前田はホテル・オクウチまで駆け付けた。

 矢張り、福田隆雄は死んで居たのだ。

 

 そこで女に指示して、フロントに電話させた。

 そして交番に事情を話して来てもらえと云った。

 

 福田隆雄と云う男は無茶な男だったが、私にとっては可愛い舎弟だった。

 

 骨は京都の八幡市にあるお寺に預けてあったままなので、私がその骨を引き取り、義竜会の五輪塔の中に入れて供養している。

 

 今はまだ道原利光も会津小鉄会の本部長なので、こんな事を書くのもどうかと思ったが、関係者が生きてる間に歴史の闇に埋れた真実を綴っておかなければと思いペンを執った。

 

 私がこの道原利光と兄弟分になった頃、同じ八幡市で事務所を構えていた、中野太郎の側近中の側近・高山博武が酒を飲み、私に難ぐせを付けて来たことがある。

 

 高山博武の云い分は「我々は親分・中野太郎が通る道を綺麗にドブ掃除をして、親分が通りやすい道を作ろうとしているのに、なんで兄弟(私のことである)が道原利光と兄弟分になるんや」と、私に絡むような口調で一方的に電話して来た。

 

 私は、電話やったらお互い顔が見えないので明日午前中に兄弟(高山)の事務所へ行くと云った。

 

 そして当時私の秘書をしていた剣(渡辺)真文に車を運転させ、高山博武の事務所へ行き話した。

 

 私は「若頭の山下重夫(やましげ)が兄弟分になっとるのに、何で俺が道原と兄弟分になったらアカンねん」と強い口調で云った。

 

 高山博武もニコニコ散髪事件では、会津小鉄の若い者を返り討ちにするような豪気な男なので、何か私に云いたかった筈だが「私が道原利光と意気投合して兄弟分になったので、人にとやかく云われる筋合いは無い」と云うと、高山も解かってくれたようだ。

 そして、それでその話しは終わった。

 

 ヤクザの世界と云うのは、裏側では色んな事があるものだ。

 

 余談だが、中野太郎・ニコニコ散髪屋襲撃事件では、私所がAブロックのスワットの責任者として外から中野太郎を護り、内ではボディーガードとして高山博武が付いて銃撃戦をしたのである。

 

 その時、内から高山博武は22口径の拳銃で応戦し、外からは私の舎弟が38口径の拳銃を持ち銃撃戦に参加したと云うのが真相なのだ。

 

 この散髪屋事件のあと、中野太郎の還暦の祝いを神戸のポートピアホテルでしたのだが、その時、中野会の組員では私だけが夫婦で招待を受けた。

 そして中野太郎夫婦と同じテーブルに座らせて貰った。

 

 私が席に着席した時、中野太郎は「竹垣すまんかったなぁ」と優しく声を掛けてくれた。

 この言葉が聞きたくて、私は中野太郎の盃を受けたのである。