自分を語ると云うのは、正直に心に浮かぶ情景を綴ることだと思うのだが、本音を殺して建前論に終始するのが政(まつりごと)の原点だろう・・・
私は世の中を動かせる程の政治力も無く、また立派な前歴がある訳でも無い。
あるのは前科と、暴力団員としての過去だけだ。
この私が刑務所の中で本を読み、余暇時間を有効に使ったお陰で、多少の文章が書けるようになった。
そんな元暴力団組長が過去を語り、現在を論じるのが世の中の害になって居るのだろうか・・・
何事にも賛否両論があるが、それが世論の原動力だ。
勇気ある世論を作るには、私の格好悪い姿を曝(さら)け出すことも必要なのかも知れない・・・
何事も一歩を踏み出さなければ、前に進まない。
人生とは因果なもので、試行錯誤の連続だろう・・・
ノンフィクションと云うのは、歴史の裏側を書くということだと私は、仁義なき戦いを書いた、美能幸三を見て思った。
それが書き手の、人格につながるのは云うまでもない。
私は安藤昇に憧れ、また田岡一雄にも憧れた。
なぜ憧れたかと云うと、どちらも自分の過去を堂々と文章にしたからだ。
私は幡随院長兵衛のことを、田岡一雄自伝で知り身近に感じた。
当時から雲の上の人だと思っていた、田岡一雄ほどの大親分が目指したと云う侠客が、幡随院長兵衛だったのだ。
人が前に進むためには、何をするにも目標を持たなければならない。
男として君は何を目標にし、誰に憧れるのか・・・
私は敢えて問いたい・・・
無知の者が教育を受けたら知識を持ち、反抗すると云う・・・
スペインが統治したフィリピンと云う国は、まさしくそれで、独立運動をさせない為に一切教育をさせなかったと、国士・野村秋介は著書で嘆いていた。
私は現役時代、バンブーコミック(竹書房)発行の「荒らぶる獅子」第2巻に後書きをして「暴力団といわれぬように努力せよ」と書いた。
この教訓が一時、刑務所の中でヤクザのバイブルとして受刑者のノートに書き写されていたと云う・・・
溝口敦著の「荒らぶる獅子」を知らないヤクザ者は居ないだろう・・・
その片隅で溝口敦と私の交流が生まれた。
それがきっかけとなり、私の小さな存在が世に知られたと云っても過言ではない。
私は全て、回りの人のお陰で今日まで何とか生かされて来た。
20代の話しだが・・・
思い起こせば私が極道としてデビューしたのが昭和47年2月6日だった。
それから9年後の昭和56年2月の寒い日に、私はいきなり兵庫県警に逮捕された。
その時の事件が新聞に載った。
普通なら罪名(警察用語で戒名と云う)だけで破門だ。
しかし竹中正久と云う親分は、三代目・田岡一雄組長の所へ行き「竹垣悟と云う男は確かにオレの若い衆だが、事件の内容は違う」と断りを入れて処分せず、私を懐で温めてくれた・・・
この話しを坂本義一から面会で聞き、私は更に竹中正久の男に惚れた。
その時の共犯者のひとりに、同じ坂本会の出身だった西村学がいる。
この西村学は、私たちより少し遅れてパクられた。
私は罪名を争う為に、肝心な部分を否認していたのだが、そのままだと西村学にはきつい判決が下りると思った。
そこで私は途中法廷で証言を変え、結果西村学は2年の懲役で済んだのを生涯義理に感じて私に尽くしてくれた。
私は、今まで出会う人すべてが良い人ばかりだった。
この5年の懲役で私は神戸のひよどり拘置所に1年居て、そのあと控訴して大阪拘置所にも1年余り居た。
同じ頃姫路事件で起訴され、のちに懲役20年を宣告された平尾光・大西正一・高山一夫たちも居た。
この三人に竹中組は交代で面会に行くように親分が指示していたのだが、私にも面会に行くようにと親分は云ってくれた。
だから当時の竹中組々員には、男の世界の義理を教えられた。
それに懲役20年を宣告された三人とは所内発信で、お互いに励まし合って来た。
・・・私は、この世に生を受けた時から母親の愛情を一身に受けて育った。
人の愛情というものは、どんな心をも動かすと私は母親の愛に教えられ、それを信じて今日まで来た。
私に人を疑うという概念があれば、私は人に裏切られていたことだろう・・・
幸い、私の心の中には猜疑心というものがない。
この歳まで生きて来て、人に裏切られたことがないと云うのは僥倖(ぎょうこう)に恵まれてのことである。
休止のお報せ
今回ブログに書いた懲役5年を務めて、神戸刑務所から出所したのが昭和61年6月19日早朝だ。
出所した明くる日(6月20日)から私は、竹中武親分の云い付け通り相談役の竹中正(まさし)に一年間付いた。
山一抗争が華やかしき頃だ。
その竹中正が死んだ。
私はこれから三十五日間 喪に服し、その竹中正の冥福を祈る。
このブログ(トップページ)は喪が明けるまで(5週間)休止することにする。
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