私が五仁會を設立してから暴力団員との接触は、殆どなくなった。
接触する限り「堅気になるように」と一言 声をかけて来たからだ。
しかし、それだけでは自己満足でしかないと、竹中正(まさし)の遺体に手を合わせたとき感じた。
私の大義は、安全・安心の街づくりであり、犯罪者と暴力団員の更生支援を旨としている。
未来の祖国日本の為に、暴力団社会を昔のように義理と人情の世界に戻せれば国家は安泰となるのである。
それが子孫繁栄の源(みなもと)にもなる。
早い話しが侠道精神に則り、国家社会に貢献する事がヤクザの本筋であり、男の世界が生き残る術(すべ)なのだ。
この考えが三代目・田岡一雄の理念に行き着くのは云うまでもない。
私はまかり間違っても、この歳でヤクザの真似事をする気はない。
だから竹中正の香典袋にも「元竹中組・竹垣悟」と書いた。
更生活動の原点というのは自らが悟りを開いた境地に達することだと、最近ぼんやりと分かり始めた・・・
私は自宅に祇龍寺という小さな庭を作り、阿修羅地蔵尊を拝み、精神的支柱としている。
我が家の宗派は禅宗の一派・曹洞宗で開祖 道元が栄(そう)の国から持ち帰ったものだ。
しかし私は仏に帰依していない・・・
竹垣悟という小さな人間として、先祖に合掌しているのである。
・・・私が竹中正の喪に服している間に、色んな出来事があった。
月日の流れと、人の世の定めには逆らえないと云うが、全くその通りである。
解かりきった事だが天地の法則とは、こう云うものだ。
・・・不肖私の兄が春の叙勲・旭日双光章を受賞した。
生きている間に国から勲章を貰うのは、周囲にとって名誉なことだろう・・・
兄の従事する業界では始めてのことなので尚更である。
これは、後に続く者にとっては大いなる励みになると思う。
話しが逸れた。
三代目竹中組々長 竹中正が死ぬ間際まで気にしていたのは竹中組の名跡が、竹中武・正(まさし)兄弟を抜きに、二代目竹中組として発足するという噂が流れたことだ。
竹中組というのは、竹中正久を頂点として発展して行き、二代目 武、三代目 正(まさし)と系譜に連なる。
黎明期は、正・英男そして、これは余り知られてないが、愛媛県松山市の支部長だった竹中修(おさむ)たち竹中兄弟が中心になり構成されていた。
この修さんは昭和40年代半ば過ぎに女に殺されたので、竹中組の歴史から抹殺されたのだ。
私が竹中組に入って暫くして、この修さんの竹中組本葬儀が浄土宗・光源寺(姫路市十二所前町)で執り行われた。
この時私は受付で来客の対応をし、萩原公明・吉村義則たちと領収書を書いていたのでよく覚えている。
・・・竹中兄弟の末弟が当時「若」と呼ばれた竹中武である。
この竹中武は二代目を名乗らなかったが、これは例外として実際由緒ある博徒の二代目というのは実子とかが継いではならないのだ。
この手本を見事なまでに示したのが、稲川会初代 稲川角二総裁であろう・・・
むかし読んだ田村栄太郎著・やくざの生活(雄山閣発行)では、そのような作法が書いてあった。
私は出来れば姫路戦争で懲役20年を旭川刑務所で務め、四代目親分が志し半ばで凶弾に倒れてから昼夜独居拘禁を希望し、出所するその日まで喪に服した高山一夫に竹中組の名跡を継がせたかった。
・・・竹中組絡みで云えば、山口組が六代目に替わって中野太郎が引退表明するのは、裏舞台で侠友会々長 寺岡修が動いたからだ。
その寺岡修が奔走人となり、竹中武同意のもと高山一夫の三代目竹中組々長が決まっていたのだ。
しかし竹中武が総裁とか、顧問として残ることを六代目山口組に拒否されたので、この話しは消滅した。
それから高山一夫は、弘道会内二代目高山組の盃なしの顧問として竹中組の再興に尽力したのだが、最後は竹中武の実話ドキュメントのインタビュー記事で極道生命を絶たれた・・・
これは当時の山口組執行部なら高山清司若頭以下、誰でも知っている事である。
この裏話を後世に残したいと執筆するのは、竹中組々員だった私の宿命なのだ。
それに寺岡修と私とは、竹中組が山口組を出て暫くして、姫路キャッスルホテルでお互い若い者10人づつ、20人で食事をして交友を深めたこともある仲だ。
私の兄弟分・瀬戸山欣秀(大阪 十三 初代中島組若頭)が、寺岡修と兄弟分だったと云うのも何かの縁だろう・・・
余談だが、私と高山一夫は昭和55年に勃発した姫路戦争の第一陣として行動を共にした。
運・不運というのは不思議なもので私の起こした事件は表に出ず、結果イケイケのトッパ者だという噂が先行し、挙げ句の果てにはポン中だと陰で云われた。
その私が長期刑に行くこともなく、この歳まで何とか生きてこれた。
この運もそろそろ潮時だと思う・・・
私は竹中組として初の本格的な抗争事件の先陣を切ったので、親分に特別可愛がってもらった。
その親分が歌う「男の誓い」は、私が憧れた高倉健の姿にダブって見えた。
それだけ惚れる親分に今生で巡り会えただけでも、私は僥倖に恵まれたのである。
この歳まで生きて、ひとつ分かったことは三途の川の彼岸には、涅槃があると云うことだ。
こんな私が生き残って、竹中正の冥福を祈ろうとは夢にも思わなかったことだ。
追記
私は独断で三十五日を以て喪明けとしたが、竹中正の法要は竹中家の作法通り四十九日を以て忌明けとするそうだ。
今回コメントは、どなた様に限らず遠慮させて頂く。
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