64歳にして俺は、弟子の泉州彫のぶ こと 坂本志信に、敬慕する高祖父・田中河内介の戒名を左腕に彫らせ、右腕に敬愛する俺の育ての親である 竹中正久の戒名を彫らせた。
俺が現在 この歳まで生きて来れたのは、この二人の教えがあり 二人の霊が俺の守護霊となって この世に何事かを残す為に生かされて来たと、最近思うようになった。
人が聞けば64歳にもなって、それも七分袖も着られないぐらいの場所まで戒名を彫るというのは、尋常でないと云われるかも知れない。
しかし 俺は二人の志しを実現させる為に、信念を持って痛さを我慢して 俎板(まないた)の鯉のように、戒名を彫らせた。
このまま冥土に行っても、この二人と同じ星の下で生き 同じ空を仰ぎたい為だ。
田中河内介にしろ 竹中正久にしろ、俺は墓を建てているので 還暦を過ぎた老骨に鞭を打ってまで、戒名を彫る必要はないと人は云うが・・・
しかしそれでも尚 二人の無念を思うと、戒名を俺の体に刻み付けなくてはならないと思って彫ったのだ。
俺は人より信心深い方だが、宗教に対する考え方は至って刹那的で、単純さを絵に描いたような男だ。
この思考力は、先祖より受け継いだ高貴な考え方だと 俺自身思っている。
俺の高祖父・田中河内介は、明治維新の魁となって 不運にも徳川幕府の壊滅を見ずに亡くなった。
その無念な気持ちが 辞句にも表れている。
「長らえて 変わらぬ月を 見るよりは 死して払わむ 世々の浮雲」という句に 魂の叫びとなって表れている。
俺は田中河内介のエピソードを読む毎に、不覚にも涙が出る。
特に明治天皇が主催した晩餐会で 維新の功労者が集まる中、朕が幼少の頃 尚幼少の頃 面倒を見てくれた田中河内介は如何にしておるか、と尋ねられた時、そこに居る者は 薩摩藩 特に大久保利通に気兼ねして、誰も本当の事を答えられなかったと云う。
その時 小河一敏が、陛下の前に歩み出て 実は・・・・・と、田中河内介の暗殺の真相を述べたのである。
この話になると 俺は、いつも涙が溢れてくる。
片や、竹中正久は 俺を実の子供以上に可愛がってくれた。
「武士は 己を知る者の為に死ぬ」と云うが、俺は それだけ竹中正久という親分に惚れた。
だから 山口組広しと云えども、四代目・竹中正久親分の五輪塔を建てた者はおろか、躰に戒名を彫った者も居ないだろう・・・
今まで親分だと云いながら、俺のような形で菩提を弔って来た人も居なかった筈だ。
これは四代目山口組・竹中正久親分に、俺が最初で最後に出来る孝行だろう・・・
それだけ俺は 今でも親分に惚れて、出来れば志し半ばだった意志を、俺は堅気だが受け継いで行けたらと思っている。
四代目親分は丁度 実子も無く、現在の山口組には居場所はないからだ。
それだけに俺は、命ある限り 親分の教えを守り、世の為・人の為に尽くして人生を終えたいのである。
竹中武は不運にも 自己の意地を通して死んだが、これも男としては立派だと思う。
だから 竹中武や竹中正が出来なかった 四代目親分の意志を俺は 俺なりの考え方で、命ある限り継いで行きたいと思っている。
坂本義一は 俺の一番最初の親分で、初代竹中組で若頭を務め 最後は舎弟頭の重責を担って死んだ。
この人も、竹中組という一本の道を生き 死んだ。
そして晩年は、義竜会の顧問をして 立派に重責を担って 俺の相談相手に成ってくれた。
だから この人の分骨も、四代目親分・竹中正久と同じ五輪塔に入れて供養している。
あの世では 同じ坂本会から出た、竹中正久親分の若い者だった西村学外、義竜会の者が何人か入っているので 墓の中も 今頃は賑やかな事だろう・・・
俺の日課は これら物故者の菩提を弔う事から始まる。
俺が死んだら 竹中正久親分に思いを馳せている者は、六道の辻で会おう。
その時は きっと娑婆では桜の花も満開だろう・・・
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五仁會 坂本志信 (日曜日, 21 6月 2015)
私は長い間 彫り師をしていますが、腕に戒名と俗名、それに墓に刻んである 言葉を入れたのは初めてです。もちろん彫り師なので、その系列の本も読んでいますが、戒名や俗名が入った文身は見た事がありません。
うちの親方は、変わった人なので誰も人がした事が無いので したのだと思います。根気と我慢にはいつも敬服しています。 合掌